・・・「不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」「だって姉さん、ベソも掻かざらに。夜一夜亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門なんざ、己がベソをなんていう口で、ああ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・御存じでもあろうが、あれは爪先で刺々を軽く圧えて、柄を手許へ引いて掻く。……不器用でも、これは書生の方がうまかった。令夫人は、駒下駄で圧えても転げるから、褄をすんなりと、白い足袋はだし、それでも、がさがさと針を揺り、歯を剥いて刎ねるから、憎・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ むくりと砂を吹く、飯蛸の乾びた天窓ほどなのを掻くと、砂を被って、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、「飯蛸より、これは、海月に似ている、山の海月だね。」「ほんになあ。」 じゃあま、あばあ、阿媽が、いま、(・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 中心へ近づくままに、掻く手の肱の上へ顕われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸のくさりかかったような面を視た。水に拙いのであろう。喘ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形の一術であろうも計られぬ。「ばか。」 投棄てるように・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ と毛むくじゃらの大胡座を掻く。 呆気に取られて立すくむと、「おお、これ、あんた、あんたも衣ものを脱ぎなさい。みな裸体じゃ。そうすればお客人の遠慮がのうなる。……ははははは、それが何より。さ、脱ぎなさい脱ぎなさい。」 串戯に・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・人目を避けて、蹲って、虱を捻るか、瘡を掻くか、弁当を使うとも、掃溜を探した干魚の骨を舐るに過ぎまい。乞食のように薄汚い。 紫玉は敗竄した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息を漏らした。且つあわれみ、且つ可忌しがったのである。 ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚せば俺より前に、台所でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管を支いて、考えると見ればお菜の献立、味噌漉で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・たであろう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整え女子の如きは服装を替えて化粧をなす等形式六つかしきを見て、単に面倒なる風習事々しき形式と考え、是を軽視するの趣あれど、そは思わざるも甚しと云わねばならぬ、斯く式広を確立したればこそ、力ある美風も・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 東京の物の本など書く人たちは、田園生活とかなんとかいうて、田舎はただのんきで人々すこぶる悠長に生活しているようにばかり思っているらしいが、実際は都人士の想像しているようなものではない。なまけ者ならば知らぬ事、まじめな本気な百姓などの秋・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ちょっと断わっておくが、僕はある脚本――それによって僕の進退を決する――を書くため、材料の整理をしに来ているので、少くとも女優の独りぐらいは、これを演ずる段になれば、必要だと思っていた時だ。「お前が踊りを好きなら、役者になったらどうだ?・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫