・・・ロシア革命運動に関する記録を見よ。過去四十年間に、この運動に参加したため、もしくはその嫌疑のために刑死した者が数万人におよんでいるではないか。もしそれ、中国にいたっては、冤枉の死刑は、ほとんどその五千年の歴史の特色の第一ともいってよいのであ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・孤りでいるのが恐いのだ。過去が遠慮もなく眼をさますからだった。それは龍介にとって亡霊だった。――酒でもよかった。が、酒では酔えない彼はかえって惨めになるのを知っていた。龍介は途中、Sのところへ寄ってみようと思った。 雪はまだ降っていた。・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・おまえたちだけには話して置きたいと思いながら、さてそれが今日まで言い出せなかったわけです。過去十幾年の間、とうさんひとりをたよりにしてきたようなおまえたちのことを思うと、どうしてもこの手紙が書けなかったのです。 この話が川越の加藤大一郎・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・また過去の私が経歴と言っても、十一二歳のころからすでに父母の手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・それから水夫を二百人集めておもらいなさい。」と言いました。 ウイリイはそれをすっかりととのえてもらって、船へつみこみました。二百人の水夫も乗りこみました。馬は、「もうこれでいいから、しまいに大麦を一俵私に下さい。そしてこの手綱をゆる・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・丁度死んでしまったものが、もう用が無くなったので、これまで骨を折って覚えた言語その外の一切の物を忘れてしまうように、女房は過去の生活を忘れてしまったものらしい。 女房は市へ護送せられて予審に掛かった。そこで未決檻に入れられてから、女房は・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ むかし、デンマークの或るお医者が、難破した若い水夫の死体を解剖して、その眼球を顕微鏡でもって調べその網膜に美しい一家団欒の光景が写されているのを見つけて、友人の小説家にそれを報告したところが、その小説家はたちどころにその不思議の現象に・・・ 太宰治 「雪の夜の話」
・・・ 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼等は論理というものに力瘤を入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくな・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 津々浦々に海の幸をすなどる漁民や港から港を追う水夫船頭らもまた季節ことに日々の天候に対して敏感な観察者であり予報者でもある。彼らの中の古老は気象学者のまだ知らない空の色、風の息、雲のたたずまい、波のうねりの機微なる兆候に対して尖鋭な直・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
出典:青空文庫