・・・ 湖も山もしっとりとしずかに日が暮れて、うす青い夕炊きの煙が横雲のようにただようている。舟津の磯の黒い大石の下へ予の舟は帰りついた。老爺も紅葉の枝を持って予とともにあがってくる。意中の美人はねんごろに予を戸口にむかえて予の手のものを受け・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・朝炊きに麦藁を焚いてパチパチ音がする。僕が前の縁先に立つと奥に居たお祖母さんが、目敏く見つけて出てくる。「かねや、かねや、とみや……政夫さんが来ました。まア政夫さんよく来てくれました。大そう早く。さアお上んなさい。起き抜きでしょう。さア・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・はじめて家を持った時、などは、井筒屋のお貞(その時は、まだお貞の亭主の思いやりで、台どころ道具などを初め、所帯を持つに必要な物はほとんどすべて揃えてもらい、飯の炊き方まで手を取らないまでにして世話してもらったのであるが、月日の経つに従い、こ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・こう学士が立話をすると、土地から出て植物学を専攻した日下部は亡くなった生徒の幼少い時のことなどを知っていて、十歳の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き母の髪まで結って置いて、それから小学校へ行った……病中も、母親の見えるところに・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・又台所の世帯万端、固より女子の知る可き事なれば、仮令い下女下男数多召使う身分にても、飯の炊きようは勿論、料理献立、塩噌の始末に至るまでも、事細に心得置く可し。自分親から手を下さゞるにもせよ、一家の世帯は夢中に持てぬものなれば、娘の時より之に・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫