・・・日本の神々様、どうかお婆さんを欺せるように、御力を御貸し下さいまし」 妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし睡気はおいおいと、強くなって来るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼でも鳴らすような、得体の知れない音楽の声・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「君はこの頃河岸を変えたのかい?」 突然横槍を入れたのは、飯沼という銀行の支店長だった。「河岸を変えた? なぜ?」「君がつれて行った時なんだろう、和田がその芸者に遇ったというのは?」「早まっちゃいけない。誰が和田なんぞを・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
去年の春の夜、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴えた夜の九時ごろ、保吉は三人の友だちと、魚河岸の往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴、洋画家の風中、蒔画師の如丹、――三人とも本名は明さないが、その道では知られた腕・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つ・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・と云う言葉を思い出し、××の将校や下士卒は勿論、××そのものこそ言葉通りにエジプト人の格言を鋼鉄に組み上げていると思ったりした。従って楽手の死骸の前には何かあらゆる戦いを終った静かさを感じずにはいられなかった。しかしあの水兵のようにどこまで・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・「誰だ?」「わたくしの家内であります。」「面会に来たときに持って来たのか?」「はい。」 A中尉は何か心の中に微笑しずにはいられなかった。「何に入れて持って来たか?」「菓子折に入れて持って来ました。」「お前の家・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然厳格に挙手の礼をした。するが早いか一躍りに保吉の頭を躍り越えた。彼は誰もいない空間へちょいと会釈を返しながら、悠々と階段を降り続けた。 庭には・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 彼れが気がついた時には、何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり河面を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその戯れを・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それが私の父がこの土地の貸し下げを北海道庁から受けた当時のこの辺のありさまだったのです。食料品はもとよりすべての物資は東倶知安から馬の背で運んで来ねばならぬ交通不便のところでした。それが明治三十三年ごろのことです。爾来諸君はこの農場を貫通す・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえおおかた姿を隠した北海道を西から東に横断して、着てみると、華氏零下二十―三十度という空気も凍たような朝が毎日続いた。氷った天、氷った土。一夜の暴風雪に家々の軒のまったく塞った様も見た。広く寒い港内にはどこ・・・ 石川啄木 「弓町より」
出典:青空文庫