・・・ 吉田はその工場に対してのある策戦で、蒸暑い夜を転々として考え悩んでいた。 蚊帳の中には四つになる彼の長男が、腐った飯粒見たいに体中から汗を出して、時計の針のようにグルグル廻って、眠っていた。かますの乾物のように、痩せて固まった彼の・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・夜中に蚊帳戸から、雨が吹き込んだので硝子戸を閉めた。朝になると、畑で秋の虫がしめた/\と鳴いていた。全く秋々して来た。夏中一つも実らなかった南瓜が、その発育不十分な、他の十分の一もないような小さな葉を、青々と茂らせて、それにふさわしい朝顔位・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・例、山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな蚊帳を出て奈良を立ち行く若葉かな不尽一つ埋み残して若葉かな窓の灯の梢に上る若葉かな絶頂の城たのもしき若葉かな蛇を截って渡る谷間の若葉かなをちこちに滝の音聞く若葉かな ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・富沢は蚊帳の外にここの主人が寝ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分夢のように見た。(戻さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続けて叩いていた。(亦何だか哀れに云って外へ出たらしい音がした。 あとはもう聞えないくら・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・アンモニアの効くことは県の衛生課長も声明しています。」「あてにならん。」「そうですか。とにかく、だいぶ腫れて参ったようです。」 親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向う・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 同じ婦人民主新聞に、G・H・Qの労働課長シュークリフ女史が、今年義務教育を終った十三万人の女の子の就職について語っている親切な忠告を見くらべると、深い感情にうたれます。シュークリフ女史はいっています。日本の紡績工業者は、新卒業子女の大・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・それらの運動は単純に家長的な立場から見られている女らしさの定義に反対するというだけではなくて、本当の女の心情の発育、表現、向上の欲求をも伴い、その可能を社会生活の条件のうちに増して行こうとするものであった。社会形成の推移の過程にあらわれて来・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・「白い蚊帳」は時期から云えば「我に叛く」より数年あとになるが、これも或る意味では「伸子」に添えてよまれるべき性質の作品と云える。「伊太利亜の古陶」には、上流社会ずきの中流人の諷刺がある。中流といっても「牡丹」に描かれたような日かげの、あ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)」
・・・そしてそういう美の世界では、宗達が嘗つて人間を自在に登場させた可能が封じられて、おのずから波や花鳥、人生としては従のものが図案の主な題材とならざるを得なかったということも示唆にとんでいる。 秋声・藤村 藤村と秋・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
出典:青空文庫