立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねた・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・そのほか発句も出来るというし、千蔭流とかの仮名も上手だという。それも皆若槻のおかげなんだ。そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止に思う以上、呆れ返らざるを得ないじゃないか?「若槻は僕にこういうんだ。何、あの女と別れるくらいは、別に・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・彼女はあの賑やかな家や朋輩たちの顔を思い出すと、遠い他国へ流れて来た彼女自身の便りなさが、一層心に沁みるような気がした。それからまた以前よりも、ますます肥って来た牧野の体が、不意に妙な憎悪の念を燃え立たせる事も時々あった。 牧野は始終愉・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなくなった。鬣と尻尾だけが風に従ってなびいた。「何んていうだ農場は」 背丈けの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。「松川農場たらいうだが」「たらいうだ? 白痴」・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 幸に箸箱の下に紙切が見着かった――それに、仮名でほつほつとと書いてあった。 祖母は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿で、松任という、三里隔った町まで、父が存生の時に工賃の貸がある骨董屋へ、勘定を取りに行ったのであった。 七十・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・と、かなで染めた、それがほのかに読まれる――紙が樹の隈を分けた月の影なら、字もただ花と莟を持った、桃の一枝であろうも知れないのである。 そこへ……小路の奥の、森の覆った中から、葉をざわざわと鳴らすばかり、脊の高い、色の真白な、大柄な婦が・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・……「――絵解をしてあげますか……――読めますか、仮名ばかり。」「はい、読めます。」「いい、お児ね。」 きつね格子に、その半身、やがて、たけた顔が覗いて、見送って消えた。 その草双紙である。一冊は、夢中で我が家の、階・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
一「謹さん、お手紙、」 と階子段から声を掛けて、二階の六畳へ上り切らず、欄干に白やかな手をかけて、顔を斜に覗きながら、背後向きに机に寄った当家の主人に、一枚を齎らした。「憚り、」 と身を横に・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 七 三枚ばかり附木の表へ、(一も仮名で書き、も仮名で記して、前に並べて、きざ柿の熟したのが、こつこつと揃ったような、昔は螺が尼になる、これは紅茸の悟を開いて、ころりと参った張子の達磨。 目ばかり黒い、けばけ・・・ 泉鏡花 「露肆」
汽車がとまる。瓦斯燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。 日和下駄カラカラと予の先きに三人・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
出典:青空文庫