・・・好いかね。君の責任だ。早速上申書を出さなければならん。そこでだ。そこでヘンリイ・バレットは現在どこに行っているかね?」「今調べたところによると、急に漢口へ出かけたようです。」「では漢口へ電報を打ってヘンリイ・バレットの脚を取り寄せよ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合に運ばれていたかを理解しようとだけ勉めた。彼は五年近く父の心に背い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・B そうかね。僕はまた君のやりそうなこったと思っていた。A 何故。B 何故ってそうじゃないか。第一こんな自由な生活はないね。居処って奴は案外人間を束縛するもんだ。何処かへ出ていても、飯時になれあ直ぐ家のことを考える。あれだけでも・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・かく荒れ果てたる小堂の雨風をだに防ぎかねて、彩色も云々。 甲冑堂の婦人像のあわれに絵の具のあせたるが、遥けき大空の雲に映りて、虹より鮮明に、優しく読むものの目に映りて、その人あたかも活けるがごとし。われらこの烈しき大都会の色彩を視む・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影らしく、ひらひらと一つ、葉ばかりの燕子花を伝って飛ぶのが、このあたりの御殿女中の逍遥した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思わせる。 すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・お祖父さんの墓参をかねて、九十九里へいってみようと思って……」「ああそうかい、なるほどそういえばだれかからそんな噂を聞いたっけ」 手拭を頭に巻きつけ筒袖姿の、顔はしわだらけに手もやせ細ってる姉は、無い力を出して、ざくりざくり桑を大切・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・せていろいろ身ぎれいにしてやるので誰云うともなく美人問屋と云ってその娘を見ようと前に立つ人はたえた事がない、丁度年頃なのであっちこっちからのぞみに母親もこの返事に迷惑して申しのべし、「手前よろしければかねて手道具は高蒔絵の美をつくし衣装なん・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴であったさかい、いつも人に馬鹿にされとったんが『伏せ』の命令で発砲した時、急に飛び起きて片足立ちになり、『あ、やられた! もう、死ぬ! 死ぬ!』て泣き出し、またば・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・想わしめるジャラクラした沼南夫人が長い留守中の孤独に堪えられなかったというは、さもありそうな気もするが、マサカに世間で評判するようなソンナ不品行もあるまいと、U氏の島田のワイフの咄というのが何とも計りかねてU氏の口の開くのを待ってると、・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・すぐに縁談を断ってしまおうかとも思われましたが、もし、そうしたら、きっと皇子が復讐をしに攻めてくるだろうというような気がして、すぐには決しかねたのであります。 やさしい心のお姫さまは、片目であるという皇子の身の上をかわいそうにも思われま・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
出典:青空文庫