・・・チューインガムを噛む税関吏の顔は日本人から見れば俳諧があるかもしれないが税関吏の胸の中には一滴の俳諧もありそうもない。 チューインガムの流行常用によってその歯噛みの動作の反応作用から日本人が生理的並びに心理的にだんだんアメリカ人のような・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍てた夜の土と砂利を噛む音は昭和の今日ではもうめったに聞くことの出来ないものになってしまった。 だんだん近付いて来る車の音が宿の前で止まるかと思っていると・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・幼いものは竹藪へつけこんでは落ち葉に交って居る不格好な実を拾っては噛むのである。太十も疱瘡に罹るまでは毎日懐へ入れた枳の実を噛んで居た。其頃はすべての病が殆ど皆自然療法であった。枳の実で閉塞した鼻孔を穿ったということは其当時では思いつきの軽・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ ひく浪の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛む勢の、前よりは凄じきを、浪自らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然として常よりも切なきわれに復る。何・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いておとなしく電車の傍を歩るいている。 先生は昔し烏を飼っておられた。どこから来たか分らないのを餌をやって放し飼にしたのである・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・あの空とあの雲の間が海で、浪の噛む切立ち岩の上に巨巌を刻んで地から生えた様なのが夜鴉の城であると、ウィリアムは見えぬ所を想像で描き出す。若しその薄黒く潮風に吹き曝された角窓の裏に一人物を画き足したなら死竜は忽ち活きて天に騰るのである。天晴に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・に眉あつめたる美人かな牡丹散て打ち重りぬ二三片唐草に牡丹めでたき蒲団かな引きかふて耳をあはれむ頭巾かな緑子の頭巾眉深きいとほしみ真結びの足袋はしたなき給仕かな歯あらはに筆の氷を噛む夜かな茶の花や石をめぐりて道を取・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ あらゆる文学は、この世俗の道への人間としての疑い、あるいはその道すがらなお魂を噛む苦しみがあることの承認から出発していたと思う。「愛情とは理由のない感情である。」「第一、恋愛とはそれ自身、認識不足によって生ずる感情の偏行にすぎない」と・・・ 宮本百合子 「「結婚の生態」」
・・・帰った日から祖母の容態が進み、カムフル注射をするようになった。十中八九絶望となった。祖母は、心持も平らかで、苦痛もない。私は、父の心を推察すると同情に堪えなかった。父は情に脆い質であった。彼にとって、母は只一人生き遺っていた親、幼年時代から・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫