・・・ 斯様な事のある最中の或る午後、プラタプは、いつものように釣をしながら、笑ってスバーに云いました。「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・そのうちに主人が私に絵をかく事をすすめて、私は主人を信じていますので、中泉さんのアトリエに通う事になりましたが、たちまち皆さんの熱狂的な賞讃の的になり、はじめは私もただ当惑いたしましたが、主人まで真顔になって、お前は天才かも知れぬなどと申し・・・ 太宰治 「水仙」
・・・四ツ谷からお茶の水の高等女学校に通う十八歳くらいの少女、身装もきれいに、ことにあでやかな容色、美しいといってこれほど美しい娘は東京にもたくさんはあるまいと思われる。丈はすらりとしているし、眼は鈴を張ったようにぱっちりしているし、口は緊って肉・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 室へ帰る時、二階へ通う梯子段の下の土間を通ったら、鳥屋の中で鷄がカサコソとまだ寝付かれぬらしく、ククーと淋しげに鳴いていた。床の中へもぐり込んで聞くと、松の梢か垣根の竹か、長く鋭い叫び声を立てる。このような夜に沖で死んだ人々の魂が風に・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・これがロシア語とかドイツ語とかであってみれば事柄はよほどちがって来るが、それでも一度び歌謡となって現われる際にはどうしても母音の方の重みが勝つ。いわんや日本語となると子音の役目はよほど軽くなると云っても差しつかえはない。 母音の重要なと・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・ 屋上で神に祈る土人の歌謡、カバレでりんごを売る女の唱歌、それらもおもしろくない事はない。また女の捨てばちな気分を表象するようにピアノの鍵盤をひとなでにかき鳴らしたあとでポツンと一つ中央のCを押すのや、兵士が自分で投げた団扇を拾い上げよ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里の新開町を通って町はずれに出た。戦争のためにできたらしい小工場が至るところに小規模な生産をやっている。ともかくも自分の子供の時にはみんな貴重な舶来物であった品物が、ちゃんとここらのこ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・『古事記』に現われた色々の歌謡の音数排列を調べてみるとかなり複雑なものがあって到底容易には簡単な方則を見つけるわけに行かない。九、十、十一、十二、十四等の音から成る詩句が色々に重畳しているというだけしか分りかねる。ただこういうものからだ・・・ 寺田寅彦 「短歌の詩形」
・・・全体が七五調の歌謡体になっているので暗記しやすかった。そのさし絵の木版画に現われた西洋風景はおそらく自分の幼い頭にエキゾチズムの最初の種子を植え付けたものであったらしい。テヘラン、イスパハンといったようないわゆる近東の天地がその時分から自分・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
古い昔から日本民族に固有な、五と七との音数律による詩形の一系統がある。これが記紀の時代に現われて以来今日に至るまで短歌俳句はもちろん各種の歌謡民謡にまでも瀰漫している。この大きな体系の中に古今を通じて画然と一つの大きな線を・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
出典:青空文庫