・・・またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種訝かしい甘美な気持が堯を切なくした。 何ゆえそんな空想が起こって来るのか? 何ゆえその空想がかくも自分を悲しませ、また、かくも親しく自分を呼ぶのか? そんなことが堯には朧げにわかるように思・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。「あ、そ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・「甘美なる恋愛」の序曲と称する「もののはずみ」とかいうものの実況は、たいていかくの如く、わざとらしく、いやらしく、あさましく、みっともないものである。 だいたいひとを馬鹿にしている。そんな下手くそな見えすいた演技を行っていながら、何かそ・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・そうして、その小説にはゆるぎなき首尾が完備してあって、――私もまた、そのような、小説らしい小説を書こうとしていた。私の中学時代からの一友人が、このごろ、洋装の細君をもらったのであるが、それは、狐なのである。化けているのだ。私にはそれがよくわ・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・ 案内記が系統的に完備しているという事と、それが読む人の感興をひくという事とは全然別な事で、むしろ往々相容れないような傾向がある。いわゆる案内記の無味乾燥なのに反してすぐれた文学者の自由な紀行文やあるいは鋭い科学者のまとまらない観察記は・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ それとほぼ同じようなわけで、もはや青春の活気の源泉の枯渇しかけた老年者が、映画の銀幕の上に活動する花やかに若やいだキュテーラの島の歓楽の夢や、フォーヌの午後の甘美な幻を鑑賞することによって、若干生理的に若返るということも決して不可能で・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・実際書いてみるまではほとんど完備したつもりでいるのが、さていよいよ書きだしてみると、書くまでは気のつかないでいた手ぬかりや欠陥がはっきり目について来る。そうして、その不備の点を補うためにさらに補助的研究を遂行しなければならないようになること・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ そうした材料を得るための観測施設は個人や小団体の力で出来ることではなくて、結局国家政府の相当熱心な努力によって始めて完備し得ることである。しかもこの種の観測事業は一年や二年で完了するものでなく、永年にわたって極めて持久的に系統的に行っ・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・暴風や雷雨に対しては中央気象台に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中にはいずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ日本のどこにも一つの理化学的火災研究所のある話を聞いた覚えがないのである。・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・学理通り飛行機が自分を乗せて動いてくれたところで、始めて形式に中味がピッタリ喰っついている事を証明するのだから、経験の裏書を得ない形式はいくら頭の中で完備していると認められても不完全な感じを与えるのであります。 して見ると、要するに形式・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
出典:青空文庫