・・・ 熊吉は黙し勝ちに食っていた。食後に、おげんは自分の側に来て心配するように言う熊吉の低い声を聞いた。「姉さん、私と一緒にいらっしゃい――今夜は小間物屋の二階の方へ泊りに行きましょう」 おげんは点頭いた。 暗い夜が来た。おげん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・帳場のテエブルの上には、前の晩に客へ出したらしい料理の献立なぞも載せてある。雅致のある支那風な桃色の用箋にそれが認めてある。そんな親切なやりかたがこの池の茶屋へ客の足を向けさせるらしい。お三輪はそこにも広瀬さんや新七の心の働いていることを思・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・だから自信のあるものが勝ちである。拙宅の赤んぼさんは、大介という名前の由。小生旅行中に女房が勝手につけた名前で、小生の気に入らない名前である。しかし、最早や御近所へ披露してしまった後だから泣寝入りである。後略のまま頓首。大事にしたまえ。萱野・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ひとつき、すねて、とうとう私が勝ちました。但馬さんとも相談して、私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。淀橋のアパートで暮した二箇年ほど、私にとって楽しい月日は、ありませんでした。毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。あなたは・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・も、その趣旨たるや、みだりに重宝珍器を羅列して豪奢を誇るの顰に傚わず、閑雅の草庵に席を設けて巧みに新古精粗の器物を交置し、淳朴を旨とし清潔を貴び能く礼譲の道を修め、主客応酬の式頗る簡易にしてしかもなお雅致を存し、富貴も驕奢に流れず貧賤も鄙陋・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ こういう種類の競技には登場者の体重や身長を考慮した上で勝敗をきめるほうが合理的であるようにも思われるが、そうしないところを見ると結局強いもの勝ちの世の中である。 食いしんぼうのレコード保有者でも少し風変わりなのは、パリのムシウ・シ・・・ 寺田寅彦 「記録狂時代」
・・・ 道太は暇つぶしに、よく彼女や抱えの女たちと花を引いたが、弱そうに見えるおひろは、そう勝ちもしなかったけれど、頭脳は鋭敏に働いた。勘定も早かった。その声に深みがあるように頭脳にも深みがあった。無口ではなかったけれど、ぶつくさした愚痴や小・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・、凡て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる天然野生の粗暴が陶器漆器などの食器に盛れている料理の真中に出しゃばって、茲に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せている処に、いわゆる雅致と称る極めてパラドックサルな美感の満・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・日本の国是はつまり開戦説で、とうとうあの露西亜と戦をして勝ちましたが、あの戦を開いたのはけっして無謀にやったのではありますまい。必ず相当の論拠があり、研究もあって、露西亜の兵隊が何万満洲へ繰出すうちには、日本ではこれだけ繰出せるとか、あるい・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・芭蕉の叙事形容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んでなしたるところなりといえども、一は精細的美を知らざりしに因る。芭蕉集中精細なるものを求むるに粽結片手にはさむ額髪五月雨や色紙へぎたる壁の跡のごとき比較的にしか思わるる・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫