・・・ 眼下の梓川の眺めも独自なものである。白っぽい砂礫を洗う水の浅緑色も一種特別なものであるが、何よりも河の中洲に生えた化粧柳の特異な相貌はこれだけでも一度は来て見る甲斐があると思われた。この柳は北海道にはあるが内地ではここだけに限られた特・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 二 草市 七月十三日の夕方哲学者のA君と二人で、京橋ぎわのあるビルディングの屋上で、品川沖から運ばれて来るさわやかな涼風の流れにけんぐしながら眼下に見通される銀座通りのはなやかな照明をながめた。煤煙にとざされた大都・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 汽車が東京へはいって高架線にかかると美しい光の海が眼下に波立っている。七年前のすさまじい焼け野原も「百年後」の恐ろしい破壊の荒野も知らず顔に、昭和五年の今日の夜の都を享楽しているのであった。 五月にはいってから防火演習や防空演習な・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 階段をおりる時に、新刊雑誌を並べた台が眼下に見おろされる。ここには、同じような体裁で、同じような内容の雑誌が、発音まで似かよったいろいろの名前で陳列されている。表紙だけすりかえておいても人々はなんの気もつかずに買って行くだろう。少年や・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・の日偶然通りかかったある店先で見た他人の他の事に関する植物学の著書につながると同時に、自分の昔書いたある論文につながり、次いでその論文に連関した大学研究室のいろいろの出来事につながり、また一方ではある眼科医へつながる。この眼科医とその前日現・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地のところどころに汚い長屋建の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・それから井上達也という眼科の医者が矢張駿河台に居たが、その人も丁度東洋さんのような変人で、而も世間から必要とせられて居た。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなってやって行きたいものと思ったのである。ところが私は医者は嫌いだ。どうか医者で・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・道徳に関係の無い文芸の御話をすれば幾らでもありますが、例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。そ・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・他の醜物を眼下に視ることなからんと欲するも得べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・になった眼窩の様に、歯を損じた口のあたりは、ゲッソリ、すぼけて見える。 お節は、つぎものの手を止めて、影の薄い夫の姿を見入った。 地の見える様な頭にも、昔は、左から分けた厚い黒々とした髪があったし、顔も油が多く、柔い白さを持って居た・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫