・・・ しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」「嘘をつ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返していた。 一行四人は兵衛の妹壻が浅野家の家中にある事を知って・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・何故自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない中に結婚なぞをしたか。妻のある為めに後ろに引きずって行かれねばならぬ重みの幾つかを、何故好んで腰につけたのか。何故二人の肉慾の結果を天からの賜物のように思わねばならぬのか。家庭の建立に費す労力と精力と・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・クサカは相変らず翻筋斗をしたり、後脚を軸にしてくるくる廻ったりして居るのだ、しかし誰もこの犬の目に表われて居る哀願するような気色を見るものはない。大人でも子供でも「クサチュカ、またやって御覧」という度に、犬は翻筋斗をしてくるくる廻って、しま・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・――船大工が謡を唄う――ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。 脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆が続く……傍の木納屋、苫屋の袖には、しおらしく嫁菜の花が・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ ああ、やれやれ、家へ帰ってもあの年紀で毎晩々々機織の透見をしたり、糸取場を覗いたり、のそりのそり這うようにして歩行いちゃ、五宿の宿場女郎の張店を両側ね、糸をかがりますように一軒々々格子戸の中へ鼻を突込んじゃあクンクン嗅いで歩行くのを御・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 劇壇の女王は、気色した。「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその頭を掌で叩き放しに、衝と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。―― 今思うと、手を触れた稚児の頭も、女か、男か、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・僕が居ない時は機織場で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮って北を掩うている。 母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・先夫人は養家の家附娘だともいうし養女だともいうが、ドチラにしても若い沼南が島田家に寄食していた時、懐われて縁組した恋婿であったそうだ。沼南が大隈参議と進退を侶にし、今の次官よりも重く見られた文部権大書記官の栄位を弊履の如く一蹴して野に下り、・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・と深く思込んだ気色だった。 折々――というよりは煩さく、多分下宿屋の女中であったろう、十二階下とでもいいそうな真白に塗り立てた女が現われて来て、茶を汲んだり炭をついだりしながら媚かしい容子をして、何か調戯われて見たそうにモジモジしていた・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫