・・・それだのに、私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せているのですわ! あの人は棺に入らないで回転窯の中へ入ってしまいましたわ。 私はどうして、あの人を送って行きましょう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られているのです・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・西宮はさぴたの煙管を拭いながら、戦える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。 燭台の蝋燭は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈は暗し数行虞氏の涙という風情だ。 吉里の涙に咽ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴたを拭っていた手を止めて・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・と問うと、穏坊はスパスパと吹かしていた煙管を自分の腰かけている石で叩きながら「そうさねー、雨になるかも知れない」と平気な声で答えている。「今降り出されちゃア困まってしまう、どうしたらよかろう」と附添の一人が気遣わしげにいうと、穏坊は相変らず・・・ 正岡子規 「死後」
・・・七十歳だった老人は白髯をしごきながら炉ばたで三人の息子と気むずかしく家事上の話をして、大きい音をたてて煙管をはたき、せきばらいしながら仏壇の前へ来ると、そこに畳んである肩衣をちょいとはおって、南無、南無、南無と仏壇をおがんだ。兄の嫁にあたる・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・ 可愛ゆいと云っても、徒に贅沢な着物を着せるではなく、ちやほやするではなく、たとい転んで泣いても自分で起きさせ、自分で壊した玩具なら、自分でなおすなり、工夫してそれを巧く使えるようにするなり、何でも自発力で生活させようとする意識は、如何・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ 洗いざらしでも子供に着せる日曜着がある者がヴィクトリア公園に出て来て遊んでいた。入ったばかりの樹の下に路傍演説者が何人も札を下げた台を持ち出し、思想陳列をやっている。 ┌──────┐ │基督顕示協会│ ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・すると、おばあさんがそこだけ切って縫いちぢめて、次の冬また着せる。二年、三年とそれを着て、結婚の話が起るようになって、見合いの写真をとったのが今もあるが、少し色の褪せかけた手札形の中で、角帽をかぶり、若々しい髭をつけた父が顔をこちらに向けて・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・ 待合にしてある次の間には幾ら病人が溜まっていても、翁は小さい煙管で雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽を眺めていた。 午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。その時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這入って、煎・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫