・・・その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮のかかった男の足駄がキチンと置かれていたのを見た。瞬間龍介はハッとした。とんでもないものを見たような気がした。そこから帰りながら変に物足らない気持を感じた。そして何かしら淋しかった。 しばらくして龍・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。またある虫ではこれに似たもので濾過器の役目をすることも・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ ある学者の説によると、動物界が進化の途中で二派に分かれ、一方は外皮にかたいキチン質を備えた昆虫になり、その最も進歩したものが蜂や蟻である。また他の分派は中心にかたい背骨ができて、そのいちばん発展したのが人間だという事である。私にはこの・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・ 中学へは家から通っていたが、その間、家事を手伝って時間の束縛を受けたようなこともなく、といって学校から帰ると、その日の学課の復習や、あすの下しらべなどを、キチンと時間を定めて、一定の範囲内に一定の勉強を続けたのでもなく、その日、その時・・・ 寺田寅彦 「わが中学時代の勉強法」
・・・力なくなく次の旅店に至れば行燈に木賃と書きたる筆の跡さえ肉痩せて頼み少きに戸を開けば三、四畳の間はむくつけくあやしきおのこ五、六人に塞がれたり。はたと困じ果ててまたはじめの旅亭に還り戸を叩きながら知らぬ旅路に行きくれたる一人旅の悲しさこれよ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・本線のシグナル柱は、キチンと兵隊のように立ちながら、いやにまじめくさってあいさつしました。「お早うございます」シグナレスはふし目になって、声を落として答えました。「若さま、いけません。これからはあんなものにやたらに声を、おかけなさら・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・ 昔から躾というと、とかく行儀作法、折りかがみのキチンとしたことを、躾がよいといいならわして来ました。しかし、今日の生活は遑しく、変化が激しく、混んだ電車一つに乗るにしても、実際には昔風の躾とちがった事情がおこって来ています。しとや・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・窓のすぐそばに白樺の梢が見える。キチンと毛布でつつんだ寝台が四側に五つずつ並んでいる。 もう一つそれより小さい女の子の寝台があって、その先が大広間です。ブルジョアが住んでいた時分はここでダンスでもやったのでしょう。今はレーニンの肖像が飾・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・ 床から二尺というところに手拭、歯ブラシ、アルミニュームのコップがキチンとぶら下っている。が、どれが金毛のインので、どれがみそっぱのターシャのかという区別をつけるために、それぞれの釘の上へ一枚ずつ絵がはりつけてある。 猫。犬。鶏。牛・・・ 宮本百合子 「砂遊場からの同志」
・・・やがて足元を定めて紅はキチンとしまったかおをして家の方にあるき去った。物かげの小男はなんとなくあっけないような心持でそのあとにつづいた。 前にもました、重くるしいかなしい心持は家の中にみなぎって東の対の女達が光君のものために同じような黒・・・ 宮本百合子 「錦木」
出典:青空文庫