・・・サア今度は覚悟を決めて来い」「オイ、兄弟俺はお前と喧嘩する気はないよ。俺は思い違いをしていたんだ。悪かったよ」「何だ! 思い違いだと。糞面白くもねえ。何を思い違えたんだい」「お前等三人は俺を威かしてここへ連れて来ただろう。そして・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極められりゃア、世話アねえ。復讐がこわいから、覚えてるがいい」「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今晩来たのね。まだお国へ行かないの」 平田はちょいと吉・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・誠に振わぬ句であるけれど、その代り大疵もないように思うて、これに極めた。 今まで一句を作るにこんなに長く考えた事はなかった。余り考えては善い句は出来まいが、しかしこれがよほど修行になるような心持がする。此後も間があったらこういうように考・・・ 正岡子規 「句合の月」
病の牀に仰向に寐てつまらなさに天井を睨んで居ると天井板の木目が人の顔に見える。それは一つある節穴が人の眼のように見えてそのぐるりの木目が不思議に顔の輪廓を形づくって居る。その顔が始終目について気になっていけないので、今度は右向きに横に・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・結局洪積紀は地形図の百四十米の線以下という大体の見当も附けてあとは先生が云ったように木の育ち工合や何かを参照して決めた。ぼくは土性の調査よりも地質の方が面白い。土性の方ならただ土をしらべてその場所を地図の上にその色で取っていくだけなのだが地・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 新しい力が、古い根づよいものによって決められ、しかしついにはいつか新しい力が農村の旧習を修正してゆく現実の有様を描いてある。こういう本は字引がいらない。 十一月三日。 時計がまた一時間進んだ。すっかり極東時間――日本と同じ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 鶏舎に面した木戸の方へ廻ると十五の子の字で、雨風にさらされて木目の立った板の面に白墨で、 花園 園主 世話人 助手人と、お清書の様にキッパリキッパリ書いてある。 微笑まずに居られない。 気がついて見る・・・ 宮本百合子 「後庭」
・・・祖母の鏡立ては木目のくっきりした渋色の艷のある四角い箱のようなものであった。鏡は妙によく見えなくて、いくら拭いても見えないことには変りがなかった。 父が何年も何年も前に一つの鏡を私にくれた。古風な唐草模様のピアノの譜面台らしいものに長方・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・ 家の普請や白木の目立った種は昨夕、エッチの処で或る人が豪奢な建築をし白木ばかりで木目の美を見せる一室を特に拵えたと云う話を聞いた。それに違いない。海岸は、矢張りその時話し合った鎌倉のことと感動して聴いたストウニー・アイランドの影響だろ・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・私小説に出戻るというのではなく、社会生活に対する興味と関心と、そのような社会生活を共同のものとして感じる心の肌理のつんだ表現としての短篇小説が期待されるようになったのである。 文学の文学らしさを求めるこの郷愁は、素材主義的な長篇に対置し・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
出典:青空文庫