・・・それでもまだ、彼が今度きゅうに、会のすんだ翌朝、郷里へ発たねばならぬという用意さえできなかったら、あるいはお互の間が救われたかもしれない。しかし彼の出発のことは、四五日前決ってしまった。そこで彼はまったく私に絶望して、愛想を尽かしてしまった・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そして僕はきゅうに胸がすがすがして、桂とともにうまく食事をして、縄暖簾を出た。 その夜二人で薄い布団にいっしょに寝て、夜の更けるのも知らず、小さな豆ランプのおぼつかない光の下で、故郷のことやほかの友の上のことや、将来の望みを語りあったこ・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・三月十三日――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」同二十一日――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁れし」 三 昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・黒橇や、荷馬車や、徒歩の労働者が、きゅうに檻から放たれた家畜のように、自由に嬉々として、氷上を辷り、頻ぱんに対岸から対岸へ往き来した。「今日は! タワーリシチ! 演説を傍聴さしてもらうぞ」 支那人、朝鮮人たち、労働者が、サヴエート同・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・それで、親爺の懐はきゅう/\した。 それだのに親爺は、まだ土地を買うことをやめなかった。熊さんが、どこへ持って行っても相手にしない、山根の、松林のかげで日当りの悪い痩地を、うまげにすゝめてくると、また、口車にのって、そんな土地まで、買っ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 女も手酌で、きゅうと遣って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気に重ねて、「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘え瓶づめとは訳が違う。「ほめてでももらわなくちゃあ埋らないヨ、五十五銭というんだもの。「何でも高くなりやあがる、ありが・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 百人近くの土方がきゅうにどよめいた。「逃げたなあ!」「何してる! ばか野郎、馬の骨!」 棒頭は殺気だった。誰かが向うでなぐられた。ボクン! 直接に肉が打たれる音がした。 この時親分が馬でやってきた。二、三人の棒頭にピストル・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・恵子と似た前からくる女を恵子と思い、友だちといっしょに歩いていたときでもよくきゅうに引き返して、小路へ入った。恵子は大柄な、女にはめずらしく前開きの歩き方をするので、そんな特徴の女に会うと、そのたびに間違ってギョッとした。不快でたまらなかっ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・そのうちに家の人が戸をしめると見えて、きゅうに、ひょいと光がきえます。そして、もう、ただのお家とちっともかわらなくなってしまいます。男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさがしまわっているものがあるなどその混乱といたましさとは、じっさい想像にあまるくらいでした。多くの人は火の中をくぐって来ての・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
出典:青空文庫