・・・性来頗る器用人で、影画の紙人形を切るのを売物として、鋏一挺で日本中を廻国した変り者だった。挙句が江戸の馬喰町に落付いて旅籠屋の「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・頗る見事な出来だったので楢屋の主人も大に喜んで、早速この画を胴裏として羽織を仕立てて着ると、故意乎、偶然乎、膠が利かなかったと見えて、絵具がベッタリ着物に附いてしまった。椿岳さんの画には最う懲り懲りしたと、楢屋はその後椿岳の噂が出る度に頭を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と、太郎はさっそく、着物を着ると、みんなの話している茶の間から入り口の方へやってきました。 おじいさんは、朝家を出たときの仕度と同じようすをして、しかも背中に、赤い大きなかにを背負っていられました。「おじいさん、そのかにどうしたの?・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・こうして諸方を歩いて、食べるものや、着るものをもらって歩く人間なのでございます。」と答えました。 お姫さまは、その話を聞いていられる間に、幾たび、びっくりなされたかしれません。そして、この女が、乞食であることをはじめてお知りになりました・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・腰には、岩を砕き、根を切る道具を結びつけていたので、しんぱくは、だれを目あてにやってくるのか、すぐに悟ったのでありました。「ああ、いい木だ。長いことにらんでいたのだが、まったく命がけでなければ取れるところでない。」と、年をとった男は、独・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・ と、がっかりしながら、電話を切ると、暫らくぽかんと突っ立っていたが、やがて何思ったのか、あわててトランクを手にすると、そわそわと出て行った。 ノッポの大股で、上本町から馬場町まですぐだった。 放送局の受付へかけつけた時、「・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・恩に着るよ。たのむ! よし来たッといわんかね」「だめ!」「じゃ、十分だけ出してくれ、一寸外の空気を吸って来ると、書けるんだ。ものは相談だが、どうだ。十分! たった十分!」「だめ! 出したら最後、東西南北行方知れずだからね、あんた・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・鎧を着ると三十銭あがりだった。種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。お辰は存分に材料を節約したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身の狭い想いをし、鎧の下を汗が走った。 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒えると、あわてて女中奉公に出し・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも知れないのだし、また福運という程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑えずに活きて行けるような新しい道が見出せないと・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・また着るとしても、ほんのお経の間だけでしょう」「何しろ簡単なもんだな。葬式という奴もこうなるとかえって愛嬌があっていいさ。また死ぬということも、考えてみるとちょっと滑稽な感じのものじゃないか。先の母の死んだ時は、まだ子供の時分だったせい・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫