・・・ 綱雄といえば旅行先から、帰りがけにここへ立ち寄ると言ってよこしたが、お前はさぞ嬉しかろうなとからかい出す善平、またそのようなことを、もう私は存じませぬ、と光代はくるりと背後を向いて娘らしく怒りぬ。 善平は笑いながら、や、しかし綱雄・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。「逃げるな!」 ワーシカは、すぐ折敷をして、銃をかまえた。命令をきかず、逃げだす奴は打ってもいいことになっているのだ。 何か、・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・すると、くるりと向き直って「えッ、お前さんなんて黙ってけずかれ!」とがなりかえした。ところが、その進が右手一杯にホウ帯をしているのを見付けて、「どうしたんだ?」ときいた。「ん、しもやけだ。」と進が返事をすると、見ている間に、お母アの眼がつり・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ するとフィロセヌスは、何にも言わずに、くるりと獄卒の方を向いて、「おい、もう一度牢屋へ入れてくれ。」と言いました。 ディオニシアスもこのときばかりはくすくす苦笑いをしました。そして、相手の正直なことを褒める印に、そのまま解放し・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・老博士は、ビヤホールの廻転ドアから、くるりと排出され、よろめき、その都会の侘びしい旅雁の列に身を投じ、たちまち、もまれ押されて、泳ぐような恰好で旅雁と共に流れて行きます。けれども、今夜の老博士は、この新宿の大群衆の中で、おそらくは一ばん自信・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、躊躇なくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。 私は大学・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 井伏さんも、その日、よっぽど当惑した御様子で、私と一緒に省線で帰り、阿佐ヶ谷で降り、改札口を出て、井伏さんは立ち止り、私の方にくるりと向き直って、こうおっしゃった。「よかったねえ。どうなることかと思った。よかったねえ。」 早稲・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・中尉はくるりと背中を向けて、同僚と一しょに店を出て行った。 門口に出ると、旆騎兵中尉が云った。「あれは誰だい。君に、君だの僕だのという、あの小男は。」「僕と話をする時、君僕と云う男を一々覚えていられるものか。」尤もである。竜騎兵・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ヴェスヴィオ行きの準備をして玄関へ出ると、昨日のポルチエーが側へ来て人の顔を見つめて顔をゆがめてそうして肩をすぼめて両手の掌をくるりと前に向けてお定まりの身振りをした。 ヴェスヴィオの麓までの馬車には年取った英国人の夫婦と同乗させられた・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・彼は黙って私の桶や天秤棒をなおしてくれ、それからくるりと奥さんの方へむきなおると、「小母さん、すみません」 と云ってお辞儀した。林は口数の少ない子だから、それだけしか言わなかったが、それはあきらかに、私のために詫びてくれてるのだとい・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫