・・・もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好い。――」「まさかほんとうに飛び下りはしまいな?」 からかうようにこういったのは、木村という電気会社の技師長だった。「冗談いっちゃいけない。哲学は哲学、人生は人生さ。―・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ それにしても友達のMは何所に行ってしまったのだろうと思って、私は若者のそばに立ちながらあたりを見廻すと、遥かな砂山の所をお婆様を助けながら駈け下りて来るのでした。妹は早くもそれを見付けてそっちに行こうとしているのだとわかりました。・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。この秋の空ながら、まだ降りそうではない。桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭の大きいのを見つけた。「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・細君は急いで下りて行った。「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらいものや、なア。月末の払いが不足する時などは、借金をするんも胸くそ悪し・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 向島の言問の手前を堤下に下りて、牛の御前の鳥居前を小半丁も行くと左手に少し引込んで黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ ふたりは、丘を下りかけていました。水のような空に、葉のない小枝が、美しく差し交じっていました。「私が帰ったら、お休みにきっといらっしゃいね。」と、先生がおっしゃいました。 年子は、あちらの、水色の空の下の、だいだい色に見えてな・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・と小僧は目をパチクリさせて、そのまま下りて行こうとする。「あれ、なぜ黙って行くのさ。呼んだのは何の用だい?」「へい、お客様で……こないだ馬の骨を持って来たあの人が……」「何、馬の骨だって?」と新造。「いいえ、きっとあの金さん・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。 しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、「失礼しやして、お先にやらしていただきやんす。お部屋の用意をしてお待ち申・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫