・・・お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴ばかりこぼされるし、――」 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではお律がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸り声を洩らしているらしかった。「お・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・彼はある素人下宿の二階に大島の羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、こう云う愚痴などを洩らしていた。「日本もだんだん亜米利加化するね。僕は時々日本よりも仏蘭西に住もうかと思うことがある。」「それは誰でも外国人はいつか一度は幻滅・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・……ついぞ愚痴などを言った事のない祖母だけれど、このごろの余りの事に、自分さえなかったら、木登りをしても学問の思いは届こうと、それを繰返していたのであるから。 幸に箸箱の下に紙切が見着かった――それに、仮名でほつほつとと書いてあった。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・夏この滝の繁昌な時分はかえって貴方、邪魔もので本宅の方へ参っております、秋からはこうやって棄てられたも同然、私も姨捨山に居ります気で巣守をしますのでざいましてね、いいえ、愚痴なことを申上げますのではございませんが、お米もそこを不便だと思って・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・常にも似ず愚痴ばかり申し上げ失礼いたし候。こんな事申し上ぐるにも心は慰み申し候。それでも省さまという人のあるわたし、決して不仕合せとは思いませぬ」 種まきの仕度で世間は忙しい。枝垂柳もほんのり青みが見えるようになった。彼岸桜の咲くと・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・から款待やされて非常な大文豪であるかのように持上げられて自分を高く買うようになってからの緑雨の皮肉は冴を失って、或時は田舎のお大尽のように横柄で鼻持がならなかったり、或時は女に振棄てられた色男のように愚痴ッぽく厭味であったりした。緑雨が世間・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者でなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。 二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・「彼女はなんぞ僕の悪ぐち言うてましたやろ?」 案外にきつい口調だった。けれど、彼女という言い方にはなにか軽薄な調子があった。「いや、べつに……」「嘘言いなはれ。隠したかてあきまへんぜ。僕のことでなんぞ聴きはりましたやろ。違い・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘されると、何ともいい訳けのない困り方でいきなり平身低頭して詫びを入れ、ほうほうの体で逃げ帰った借金取があったと、きまってあとでお辰の愚痴の相手は娘の蝶子であった。 そんな母親を蝶子はみっ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・愚か者の妻の――愚痴ばかし言ってくる――それほどならば帰る気になぞならなければよかったのに――彼女からの時々の手紙も、実際私を弱らすものだ。けれどもむろん、そのためばかしとはいえない。とにかく私には元気がない。動くものがない。私の生命力とい・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫