・・・あ鶏が鳴くわいと思ったと思うと、其のままぐっすり寝入って、眼の覚めた時は、九時を過ぎている。朝日が母屋の上からさしていて、雨戸を開けたらかっと眼のくらむ程明かった。 これから後のことを書くのは、予は不快に堪えない。しかし書かねば此文章の・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・賢一は常のごとくまくらに頭をつけたけれど、ぐっすりとすぐに眠りに陥ることができなかった。「都会が、いたずらに華美であり、浮薄であることを知らぬのでない。自分は、かつて都会をあこがれはしなかった。けれど、立身の機会は、つかまなければならぬ・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・ 彼は毎晩酔払っては一時ごろまでぐっすりと睡りこんだ。眼が醒めては追かけ苦しい妄想に悩まされた。ある時には自分が現在、広大な農園、立派な邸宅、豊富な才能、飲食物等の所有者であるような幻しに浮かされたが、また神とか愛とか信仰とかいうような・・・ 葛西善蔵 「贋物」
おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものば・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 王女は王子がぐっすりねいったのをかんづくと、にっこり笑って、おき上りました。じつはさっきから、上手に寝たふりをして、王子が寝入るのをねらっていたのでした。 そしておき上るといきなり、ひょいと小さな鳩になって窓からとび出しました。王・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・へんな話ですけれども、私は、友人のところであの小説を読んで、それから酒を呑んで、そのうちに、おう、おう、大声を放って泣いて、途中も大声で泣きながら家へかえって、ふとんを頭からかぶって寝て、ぐっすりと眠りました。朝起きたときには、全部忘却して・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。いやらしい、煩瑣な堂々めぐりの、根も葉もない思案・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・図に乗ってまくし立てるようだが、登楼して、おいらんと二人でぐっすり眠って、そうして朝まで、「ひょんな事」も「妙な縁」も何も無く、もちろんそれゆえ「恋愛」も何も起らず、「おや、お帰り?」「そう。ありがとう。」と一夜の宿のお礼を言ってそのまま引・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・勝治がぐっすり眠っている間に、有原はさっさとひとりで帰ってしまったのである。勝治は翌る日、勘定の支払いに非常な苦心をした。おまけにその一夜のために、始末のわるい病気にまでかかった。忘れようとしても、忘れる事が出来ない。けれども勝治は、有原か・・・ 太宰治 「花火」
・・・「うむ。ぐっすり眠った。」 私は隣室のあの事を告げて小川君を狼狽させる企てを放棄していた。そうして言った。「日本の宿屋は、いいね。」「なぜ?」「うむ。しずかだ。」 太宰治 「母」
出典:青空文庫