・・・ すると字を書いた罫紙が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気なくそれを取り上げた。「M子に献ず。……」 後は洋一の歌になっていた。 慎太郎はその罫紙を抛り出すと、両手を頭の後に廻しながら、蒲団の上へ仰向け・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・東洋の画家には未だ甞て落款の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語である。それを特筆するムアアを思うと、坐ろに東西の差を感ぜざるを得ない。 大作 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 受附のような所で、罫紙の帳面に名前を書いて、奥へ通ると、玄関の次の八畳と六畳と、二間一しょにした、うす暗い座敷には、もう大分、客の数が見えていた。僕は、人中へ出る時は、大抵、洋服を着てゆく。袴だと、拘泥しなければならない。繁雑な日本の・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・「この前の時間にも、に書いて消してをまた消して(颶風なり、と書いた、やっぱり朱で、見な…… しかも変な事には、何を狼狽たか、一枚半だけ、罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これとしたぜ。」 と指す指が、ひッつりのように、びくりとし・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・せる歌人にあっては、此研究や自覚は遠き昔に於て結了せられたであろう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整え女子の如きは服装を替えて化粧をなす等形式六つかしきを見て、単に面倒なる風習事々しき形式と考え、是を軽視するの趣あれど、そは思わざるも甚しと・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・文学として立派に職業たらしむるだけの報酬を文人に与え衣食に安心して其道に専らなるを得せしめ、文人をして社会の継子たるヒガミ根性を抱かしめず、堂々として其思想を忌憚なく発露するを得せしめて後初めて文学の発達を計る事が出来る。文人が社会を茶にし・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・それまでは文学を軽視し、内心「時間潰し」に過ぎない遊戯と思いながら面白半分の応援隊となっていたが、それ以来かくの如き態度は厳粛な文学に対する冒涜であると思い、同時に私のような貧しい思想と稀薄な信念のものが遊戯的に文学を語るを空恐ろしく思った・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・それからしてその本が原稿になってこれを罫紙に書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。そのときに友人が来ましてカーライルに遇ったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 浜子は世帯持ちは下手ではなかったが、買物好きの昔の癖は抜けきれず、おまけに継子の私が戻ってみれば、明日からの近所の思惑も慮っておかねばならないし、頼みもせぬのに世話を焼きたがるおきみ婆さんの口も怖いと、生みの母親もかなわぬ気のよさを見・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・千代が生まれるとお光は継子だ。奉公人たちはひそかに残酷めいた期待をもったが、登勢はなぜか千代よりもお光の方が可愛いらしかった。継子の夫を持てばやはり違うのかと奉公人たちはかんたんにすかされて、お定の方へ眼を配るとお定もお光にだけは邪険にする・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫