・・・何度読直しても『今朝店焼けた』としか読めない。金城鉄壁ならざる丸善の店が焼けるに決して不思議は無い筈だが、今朝焼けるとも想像していないから、此簡単な仮名七字が全然合点めなかった。 且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ 空は、時雨のきそうな模様でした。今朝がたから、街の中をさまよっていたのです。たまたまこの家の前にきて、思わず足を止めてしばらく聞きとれたのでした。 そのうちに、街には、燈火がつきました。家のうちのピアノの音はやんで、唄の声もしなく・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・昨夜は夜通し歩いて、今朝町の入口で蒸芋を一銭がとこ求めて、それでとにかく朝は凌いだ。握飯でもいい、午は米粒にありつきたいのだが、蝦蟇口にはもう二銭銅貨一枚しか残っていない。 私はそこの海岸通りへ出た。海から細く入江になっていて、伝馬や艀・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・しかし、新吉は今朝東京のその雑誌社へ「ゲ ンコウイマオクッタ」オマチコウ」とうっかり電報を打ってしまったのだ。もう断るにしては遅すぎる。しかし間に合わない。三時を過ぎた。 編輯者の怒った顔を想像しながら、蒲団のなかにもぐり込んで、眼を閉・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持って帰るから――という手紙一本あったきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行った二女のこと、また常陸の磯原へ避暑に行ってるKのこと、――Kからは今朝も、二ツ島という小松の茂ったそこの磯・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・―― 行一はそこに立ち、今朝の夢がまだ生なましているのを感じた。若い女の腿だった。それが植物という概念と結びついて、畸形な、変に不気味な印象を強めていた。鬚根がぼろぼろした土をつけて下がっている、壊えた赤土のなかから大きな霜柱が光ってい・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・しまどろみぬと思うや、目さめし時は東の窓に映る日影珍しく麗かなり、階下にては母上の声す、続いて聞こゆる声はまさしく二郎が叔母なり、朝とく来たりて何事の相談ぞと耳そばだつれど叔母の日ごろの快活なるに似ず今朝は母もろともしめやかに物語して笑い声・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・それに、今朝それを見まして、それでわっちがこっちの人じゃねえだろうと思ったんです。」 「どうして。」 「どうしてったって、段細につないでありました。段細につなぐというのは、はじまりの処が太い、それから次第に細いのまたそれより細いのと・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 俺は今朝Nが警察の出がけに持ってきてくれたトマトとマンジュウの包みをあけたが、しばらくうつろな気持で、膝の上に置いたきりにしていた。 控室には俺の外にコソ泥ていの髯をボウ/\とのばした厚い唇の男が、巡査に附き添われて検事の調べを待・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ども自分の仕事をなし得ず、せめて煩わなかっただけでもありがたいと思えと人に言われて、僅かに慰めるほどの日を送って来たが、花はその間に二日休んだだけで、垣のどこかに眸を見開かないという朝とてもなかった。今朝も、わたしの家では、十八九輪もの眼の・・・ 島崎藤村 「秋草」
出典:青空文庫