・・・二十七年の夏も半ばを過ぎて盆の十七日踊りの晩、お絹と吉次とが何かこそこそ親しげに話して田圃の方へ隠れたを見たと、さも怪しそうにうわさせし者ありたれど恐らくそれは誤解ならん。なるほど二人は内密話しながら露繁き田道をたどりしやも知れねど吉次がこ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・げに偽りという鳥の巣くうべき枝ほど怪しきはあらず、美わしき花咲きてその実は塊なり。 二郎が家に立ち寄らばやと、靖国社の前にて車と別れ、庭に入りぬ。車を下りし時は霧雨やみて珍しくも西の空少しく雲ほころび蒼空の一線なお落日の余光をのこせり。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ ほかの少年らも驚いて、豊吉を怪しそうに見て、急に糸を巻くやら籠を上げるやら、こそこそと逃げていってしまった。 豊吉はあきれ返って、ぼんやり立って、少年らの駆けて行く後ろ影を見送った。『上田の豊さんが帰ったそうだ』と彼を記憶・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 下 此二人の少女は共に東京電話交換局でから後も二三度会って多少事情を知って居る故、かの怪しい噂は信じなかったが、此頃になって、或という疑が起らなくもなかった。というのもお秀の祖母という人が余り心得の善い人でな・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・灰色の外套長く膝をおおい露を避くる長靴は膝に及び頭にはめりけん帽の縁広きを戴きぬ、顔の色今日はわけて蒼白く目は異しく光りて昨夜の眠り足らぬがごとし。 門を出ずる時、牛乳屋の童にあいぬ。かれは童の手より罎を受け取りて立ちながら飲み、半ば残・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 下女は下女で碓のような尻を振立てて縁側を雑巾がけしている。 まず賤しからず貴からず暮らす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。 主人は打水を了えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗っ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・臙脂屋早く身退りし、丹下は其人を仰ぎ見る、其眼を圧するが如くに見て、「丹下、けしからぬぞ、若い若い。あやまれあやまれ。後輩の身を以て――。御無礼じゃったぞ。木沢殿に一応、斯様に礼謝せい。」と、でっぷり肥ったる大きな身体を引包む緞子の・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・顔は百合の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪のベールのような黒い髪、しかして罌粟のような赤い毛の帽子をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫っていました。むすめはお母さんの足もとの床の上にすわっ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・などと、けしからぬ事を私に囁く。すれちがう女にだけは、ばかに目が早いのである。私は、にがにがしくてたまらない。「美人じゃありませんよ。」「そうかね、二八と見えたが。」 呆れるばかりである。「疲れたね、休もうか。」「そうで・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫