・・・実はあの手紙、大変忙しい時間に、社の同僚と手分けして約二十通ちかくを書かねばならなかったので、君の分だけ、個人的な通信を書いている時機がなかった。稿料のことを書かないのは却って不徳義故誰にでも書くことにしている。一緒に依頼した共通の友人、菊・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・白い壁に、罌粟の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流・・・ 太宰治 「故郷」
・・・という事だけしか出ていなかった。これだけでは、私には不足なのだ。もう一つ、もっと大事な意味があったように、私は子供の頃から聞かされていた。この夜は、牽牛星と織女星が、一年にいちどの逢う瀬をたのしむ夜だった筈ではないか。私は、子供の頃には、あ・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・やはり、私が十歳くらいの頃の事でありましたでしょうか、この下女は、さあ、あれで十七、八になっていたのでしょうか、頬の赤い眼のきょろきょろした痩せた女でありましたが、こいつが主人の総領息子たる私に、実にけしからん事を教えまして、それから今度は・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・問うだけ損だよ、めくらめっぽう、私はひとり行くのだと悪ふざけして居る間に、ゼラチンそろそろかたまって、何か一定の方向を指示して呉れないものでもない、心もとなき杖をたよりに、一人二役の掛け合いまんざい、孤立の身の上なれども仲間大勢のふりして、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・君は、芥子つぶほどの蟹を見たことがあるか。芥子つぶほどの蟹と、芥子つぶほどの蟹とが、いのちかけて争っていた。私、あのとき、凝然とした。わがダンディスム「ブルウタス、汝もまた。」 人間、この苦汁を嘗めぬものが、かつて、ひと・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・けた一瞬まえの笹の葉の霜、一万年生きた亀の甲、月光の中で一粒ずつ拾い集めた砂金、竜の鱗、生れて一度も日光に当った事のないどぶ鼠の眼玉、ほととぎすの吐出した水銀、蛍の尻の真珠、鸚鵡の青い舌、永遠に散らぬ芥子の花、梟の耳朶、てんとう虫の爪、きり・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・従って、この特徴と重写の技巧とを併用すれば、一粒の芥子種の中に須弥山を収めることなどは造作もないことである。巨人の掌上でもだえる佳姫や、徳利から出て来る仙人の映画などはかくして得られるのである。このようにカメラの距離の調節によって尺度の調節・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・朱色の罌粟や赤椿などは前者の例であり、紫色の金魚草やロベリアなどは後者の例である。一体に朱赤色や濃黄色といったような熱色の花には単調な色彩が多くて紫青色がかったものや紅でも紫がかったものにはこうした色のかがよいとでもいったものがあるらしい。・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 第六十八段、大根が兵士に化ける話は少し怪しいが、次の六十九段と合せて読んで見ると寓意を主として書いたものとも思われる。 迷信とは少し事変るがいわゆるゴシップの人を迷わす例がある。猫又のゴシップの力で犬が猫又になる話や、ゴシップから・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
出典:青空文庫