・・・現に今朝なぞも病人にはかまわず、一時間もお化粧にかかっていた。………「いくら商売柄だって、それじゃお前、あんまりじゃないか。だから私の量見じゃ、取り換えた方が好いだろうと思うのさ。」「ええ、そりゃその方が好いでしょう。お父さんにそう・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、四時頃やっと床を出ると、いつもより念入りに化粧をした。それから芝居でも見に行くように、上着も下着もことごとく一番好い着物を着始めた。「おい、おい、何だってまたそんなにめかすんだい?」 その日は一日店へも行かず、妾宅にごろごろして・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ その吉助が十八九の時、三郎治の一人娘の兼と云う女に懸想をした。兼は勿論この下男の恋慕の心などは顧みなかった。のみならず人の悪い朋輩は、早くもそれに気がつくと、いよいよ彼を嘲弄した。吉助は愚物ながら、悶々の情に堪えなかったものと見えて、・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・在家の生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐で編んで後ろに垂れ、ベネチヤの純白な絹を着た。家の者のいない隙に、手早く置手紙と形見の品物を取り・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私がお前たちの母上の写真を撮ってやろうといったら、思う存分化粧をして一番の晴着を着て、私の二階の書斎に這入って来た。私は寧ろ驚いてその姿を眺めた。母上は淋しく笑って私にいった。産は女の出陣だ。いい子を生むか死ぬか、そのどっちかだ。だから死際・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ そこへ……小路の奥の、森の覆った中から、葉をざわざわと鳴らすばかり、脊の高い、色の真白な、大柄な婦が、横町の湯の帰途と見える、……化粧道具と、手拭を絞ったのを手にして、陽気はこれだし、のぼせもした、……微酔もそのままで、ふらふらと花を・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・その頃、銀座さんと称うる化粧問屋の大尽があって、新に、「仙牡丹」という白粉を製し、これが大当りに当った、祝と披露を、枕橋の八百松で催した事がある。 裾を曳いて帳場に起居の女房の、婀娜にたおやかなのがそっくりで、半四郎茶屋と呼ばれた引手茶・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・れむには、こっちよりもそれ相当の難題を吹込みて、これだけのことをしさえすれば、それだけの望に応ずべしとこういう風に談ずるが第一手段に候なり、昔語にさること侍りき、ここに一条の蛇ありて、とある武士の妻に懸想なし、頑にしょうじ着きて離るべくもな・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・、人というものの肉体上精神上、実に根本問題を解決するの力がある、其美風を有せる歌人にあっては、此研究や自覚は遠き昔に於て結了せられたであろう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整え女子の如きは服装を替えて化粧をなす等形式六つかしきを見て、単に面・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・おとよさんは少し屈み加減になって両手を風呂へ入れているから、省作の顔とおとよさんの顔とは一尺四、五寸しか離れない。おとよさんは少し化粧をしたと見え、えもいわれないよい香りがする。平生白い顔が夜目に見るせいか、匂いのかたまりかと思われるほど美・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
出典:青空文庫