・・・彼もあらゆる男性のように三重子に倦怠を感じ出したのであろうか? けれども捲怠を生ずるためには同一のものに面しなければならぬ。今日の三重子は幸か不幸か全然昨日の三重子ではない。昨日の三重子は、――山手線の電車の中に彼と目礼だけ交換した三重子は・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。 が、やがて発車の笛が鳴っ・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・だからその時間中、倦怠に倦怠を重ねた自分たちの中には、無遠慮な欠伸の声を洩らしたものさえ、自分のほかにも少くはない。しかし毛利先生は、ストオヴの前へ小さな体を直立させて、窓硝子をかすめて飛ぶ雪にも全然頓着せず、頭の中の鉄条が一時にほぐれたよ・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ 二人が、この妾宅の貸ぬしのお妾――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の室へ立った間に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、「御苦労々々。」 と、調子づいて、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・朝起きては、身の内の各部に疼痛倦怠を覚え、その業に堪え難き思いがするものの、常よりも快美に進む食事を取りつつひとたび草鞋を踏みしめて起つならば、自分の四肢は凛として振動するのである。 肉体に勇気が満ちてくれば、前途を考える悲観の観念もい・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠いのをおぼえた。 僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・顔を洗うのもそこそこにして、部屋にもどり、朝昼兼帯の飯を喰いながら、妻から来た手紙を読んで見た。僕の宿っているのは芸者屋の隣りだとは通知してある上に、取り残して来た原稿料の一部を僕がたびたび取り寄せるので、何か無駄づかいをしていると感づいた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その薬味箪笥を置いた六畳敷ばかりの部屋が座敷をも兼帯していて緑雨の客もこの座敷へ通し、外に定った書斎らしい室がなかったようだ。こんな長屋に親の厄介となっていたのだから無論気楽な身の上ではなかったろうが、外出ける時はイツデモ常綺羅の斜子の紋付・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・って強弩の末魯縞を穿つあたわざる憾みが些かないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠のあるは止むを得なかろう。とにかく二・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・東片町時代には大分老耄して居睡ばかりしていたが、この婆さん猫が時々二葉亭の膝へ這上って甘垂れ声をして倦怠そうに戯れていた。人間なら好い齢をした梅干婆さんが十五、六の小娘の嬌態を作って甘っ垂れるようなもんだから、小※啼きながら頻りと身体をこす・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫