・・・夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情は群衆に感染して、克服しつつ、彼の街頭宣伝は首都における一つの「事件」となってきた。 既成教団の迫害が生ずるのはいうまでもない成行き・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ことに子どもの幼いときに、故意に、不自然に教育的なのはよくない。食卓でいちいち合掌させて食事をさせるというようなのは私は好まない。「おいたはおよし」と母親が叱っても、茶碗を引っくり返すくらいなところもないと母のなつかしみはつくまい。人間とし・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・皺も一時に、故意につけられたものだ。 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ/\はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたも・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・これを米屋の番頭から聞きこんだあるはしっこい女は、じゃ、うちにある外米を売ってあげよう、うんと安くしてあげてもかまわないから、と云いだした。 往復一里もあるその部落へその女は負い籠を背負って行ったそうだが、結果がどうなったかは帰って来て・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・ ──こいつは、くそッ、なにも出来なくなっちゃったな、と西山は思った。彼は、一寸なにかやると、すぐ検束騒ぎをするここの警察をよく知っていた。 三人は、藤井先生の家へ行くことが出来なくなった。宗保は、薪を積みに行くという真実味をよそう・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・同様に手むかいをする百姓のだと思って、故意に厳重に処置をした。 四 二週間ほどたって、或る日、健二が残飯桶をかついで丘の坂路を登っていると、彼の足音を聞きつけて、封印を附けられた宇一の小屋から二十匹ばかりが急に揃って・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 密偵は、日本軍にこびるために、故意に事実を曲げて仰山に報告したことがあった。が、パルチザンの正体と居所を突きとめることに苦しんでいる司令部員は、密偵の予想通り、この針小棒大な報告を喜んだ。彼等は、パルチザンには、手が三本ついているよう・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。「どうだな?」「傷の下になんかこりのようなものが出来とるんですが。」・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・髪も、眉も、黒く濃い。唇は紅をつけたように赤かった。耳が白くて恰好がよかった。眼は鈴のように丸く、張りがあった。たゞ一つ欠点は、顔の真中を通っている鼻が、さきをなゝめにツン切られたように天を向いていることだ。――それも贔屓目に見れば愛嬌だっ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上から押すのですから、澪を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るというと、暗いというほどじゃないが、よほど濃い鼠色に暮れて来た、その水の中からふっ・・・ 幸田露伴 「幻談」
出典:青空文庫