・・・その嘴が長いやっとこ鋏のようになって、その槓杆の支点に当るねじ鋲がちょうど眼玉のようになっている。鳥の身体や脚はただ鎚でたたいて鍛え上げたばかりの鉄片を組合せて作ったきわめて簡単なもののように見える。鉄はところどころ赤く錆びている。それにも・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・それでなくとも辰之助の母である道太の第一の姉には、お絹たちはあまり好感をもたれていなかったし、持ってもいなかった。それは辰之助が今は隣国で廓のお師匠さんをしている、お絹のすぐ次ぎの妹のお芳と関係していた時分からのことであった。二人のあいだに・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔に改称の禍 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川の岸・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・先生の名著『言長語』の二巻は明治三十二、三年の頃に公刊せられた。同書に載せられた春の墨堤という一篇を見るに、「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方、花の下行く風の襟元に冷やかなる頃のそぞろあるき。 一、夜ややふけて、よその笑ひ声も・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・そうでなくとも稀に逢えば誰でも慇懃な語を交換する。お石に逢う度に其情は太十の腸に浸み透るのであった。瞽女は秋毎に村へ来た。そうしてお石は屹度其仲間に居たのである。太十は後には瞽女の群をぞろぞろと自分の家へ連れ込むようになった。女房は我儘な太・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・今の評家はかほどの事を知らぬ訳ではあるまいから、御互にこう云う了見で過去を研究して、御互に得た結果を交換して自然と吾邦将来の批評の土台を築いたらよかろうと相談をするのである。実は西洋でもさほど進歩しておらんと思う。 余は今日までに多少の・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立の朝、君は篋底を探りて一束の草稿・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ところで僕のような我がまま者には、自己を抑制することが出来ない上に、利害交換の妥協ということが嫌いなので、結局ひとりで孤独に居る外はないのである。ショーペンハウエルの哲学は、この点で僕等の心理を捉え、孤独者の為に慰安の言葉を話してくれる。シ・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・これすなわち我が輩の着眼、皇漢洋三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。 願くは我が旧里中津の士民も、今より活眼を開て、まず洋学に従事し、自から労して自から食い、人の自由を妨げずして我が自由を達し、脩徳開智、鄙吝の・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・それはこうだ――何でも露国との間に、かの樺太千島交換事件という奴が起って、だいぶ世間がやかましくなってから後、『内外交際新誌』なんてのでは、盛んに敵愾心を鼓吹する。従って世間の輿論は沸騰するという時代があった。すると、私がずっと子供の時分か・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫