・・・夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可憐な色に咲いていた。私はしみじみと秋を感じた。暦ではまだ夏だったが……。 かつて、極めて孤独な時期が私にもあった。ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・この老先生がかねて孟子を攻撃して四書の中でもこれだけは決してわが家に入れないと高言していることを僕は知っていたゆえ、意地わるくここへ論難の口火をつけたのである。『フーンお前は孟子が好きか。』『ハイ僕は非常に好きでございます。』『だれに習・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・その一つ開きしままに置かれ、西詩「わが心高原にあり」ちょう詩のところ出でてその中の『いざさらば雪を戴く高峰』なる一句赤き線ひかれぬ。乙女の星はこれを見て早くも露の涙うかべ、年わかき君の心のけだかきことよと言い、さて何事か詩人の耳に口・・・ 国木田独歩 「星」
・・・円錐形にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯れ草が一面に夕陽を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 自分如きも文芸家となったけれども、学窓にあったときには最も深い倫理学者になることを理想とし、当時倫理学が知識青年からかえり見られなかった頃に、それを公言し、ほこりともしていた。 文芸を愛好する故に倫理学を軽視するという知識青年の風・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・あそこに深い谷がある、あそこに遠い高原がある、とその窓から指して言うことができた。「おかげで、いい家ができました。太郎さんにくれるのは惜しいような気がして来ました。これまでに世話してくださるのも、なかなか容易じゃありません。私もまた、時・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・蓼科の山つづきから遠い南佐久の奥の高原地がそこから望まれた。近くには士族地の一部の草屋根が見え、ところどころに柳の梢の薄く青みがかったのもある。遅い春が漸く山の上へ近づいて来た。「高瀬さん、これを一つ君に呈しましょう」 と言って先生・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・生れて、いまだ一度も嘘言というものをついたことがないと、躊躇せず公言している。それは、どうかと思われるけれど、しかし、剛直、潔白の一面は、たしかに具有していた。学校の成績は、あまりよくなかった。卒業後は、どこへも勤めず、固く一家を守っている・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・春田が、どのような巧言を並べたてたかは、存じませぬけれど、何も、あんなにセンチメンタルな手紙を春田へ与える必要ございません。醜態です。猛省ねがいます。私、ちゃんとあなたのための八十円用意していたのに、春田などにたのんでは十円も危い。作家を困・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・美しさ、などという無責任なお座なりめいた巧言は、あまり使いたくないのだが、でも、それは実際、美しいのだから仕様がない。三井君は寝ながら、枕頭のお針仕事をしていらっしゃる御母堂を相手に、しずかに世間話をしていた。ふと口を噤んだ。それきりだった・・・ 太宰治 「散華」
出典:青空文庫