・・・その際における口のまわりの運動の仕事の大部分が何に使われるかと思ってみると、それは各種の母音に適応するように口腔の形と大きさを変化させるために使われているのである。そしてこういう声を出さずに口だけ動かす読み方では子音を発するに必要な細かい調・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔の中を丸裸にしている人もある。頭を使う人は歯が悪くなると言って弁解するのは後者であり、意志の強さが歯に現われるというのは前・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・皆々思わず起き上がる。港口浅せたるためキールの砂利に触るゝなるべし。あまり気味よからねば半頁程の所読んではいたれど何がかいてあったかわからざりしも後にて可笑しかりける。船の進むにつれて最早気味悪き音はやんで動揺はようやく始まりて早や胸悪きを・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 鳥の鼻に嗅覚はないが口腔が嗅覚に代わる官能をすることがあるとある書に見えているが、もしも香を含んだ気流が強くくちばしに当たっている際にくちばしを開きでもすれば、その香が口腔に感ずるということもあるかもしれない。 上述のごとく、視覚・・・ 寺田寅彦 「とんびと油揚」
・・・ もう一つは浦戸港の入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没すると教えたことである。しかるに明治年間ある知事の時代に、たぶん机の上の学問しか知らないいわゆる技師の建言によってであろう、この礁が汽船の出入りの・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・ 中学時代からいっしょであったのが、高校の入学試験でM氏は通過し、亮は一年おくれた。その時M氏に贈った句に「登る露散る露秋の別れかな」というのがある。 高等学校では私もよく食った凱旋饅頭を五十も食って、あとでビットル散をなめたりして・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・いい嫁だ。孝行な倅にうってつけの気だてのよい嫁だ。老人の俺に仕事をさせまいとする心掛がよくわかる――。 しかし、善ニョムさんは寝床の中で、もう三日くらした。年のせいか左脚のリュウマチが、この二月の寒気で痛んでしようがなかった。「温泉・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。しかしまた一方には何事にも促らわれず、自由に自分の好む勉強ができるので・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
こう云う船だった。 北海道から、横浜へ向って航行する時は、金華山の燈台は、どうしたって右舷に見なければならない。 第三金時丸――強そうな名前だ――は、三十分前に、金華山の燈台を右に見て通った。 海は中どころだっ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・されども夫の家にゆきては専らしゅうとしゅうとめを我親よりも重んじて厚く愛しみ敬ひ孝行を尽べし。親の方を重んじ舅の方を軽ずる事なかれ。の方の朝夕の見舞を闕べからず。の方の勤べき業を怠べからず。若しの命あらば慎行ひて背べからず。万のこと舅姑に問・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫