基督教国にはどこにでも、「さまよえる猶太人」の伝説が残っている。伊太利でも、仏蘭西でも、英吉利でも、独逸でも、墺太利でも、西班牙でも、この口碑が伝わっていない国は、ほとんど一つもない。従って、古来これを題材にした、芸術上の・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・勝つ者は青史の天に星と化して、芳ばしき天才の輝きが万世に光被する。敗れて地に塗れた者は、尽きざる恨みを残して、長しなえに有情の人を泣かしめる。勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。 ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・もなお生きているほど生活力が強いという意味があるのではなかろうかと思いますが、そのハンザキ大明神としてまつられてある山椒魚も、おそろしく強く荒々しいものであったそうで、さかんに人間をとって食べたという口碑がありまして、それは作陽誌という書物・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・芸術の世界では、悪徳者ほど、はばをきかせているものだ、と誰がそんな口碑を教えたものか、たしかにそれを信じていた。高等学校のころには、頬に喧嘩の傷跡があり、蓬髪垢面、ぼろぼろの洋服を着て、乱酔放吟して大道を濶歩すれば、その男は英雄であり、th・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・証明のできない言明を妄信するのも実はやはり一種の迷信であるとすれば、干支に関するいろいろな古来の口碑もいつかはまじめに吟味し直してみなければならないと思われるのである。 七 灸治 子供の時分によくお灸をすえると言って・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・それにもかかわらずこういう口碑は人の心を三韓征伐の昔に誘う。そして現代の事相に古い民俗的の背景を与える。 この神社の祭礼の儀式が珍しいものであった。子供の時分に一二度見ただけだから、もう大部分は忘れてしまったが、夢のような記憶の中を捜す・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・ おとぎ話や伝説口碑のようなものでも日本の自然とその対人交渉の特異性を暗示しないものはないようである。源氏物語や枕草子などをひもといてみてもその中には「日本」のあらゆる相貌を指摘する際に参考すべき一種の目録書きが包蔵されている事を認める・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
スカンジナヴィアの遠い昔の物語が、アイスランド人の口碑に残って伝えられたのを、十二世紀の終わりにスノルレ・スツール・ラソンという人が書きつづった記録が Heimskringla という書物になって現代に伝えられている。その一部が英訳さ・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・千四百四十九年にバーガンデの私生子と称する豪のものがラ・ベル・ジャルダンと云える路を首尾よく三十日間守り終せたるは今に人の口碑に存する逸話である。三十日の間私生子と起居を共にせる美人は只「清き巡礼の子」という名にその本名を知る事が出来ぬのは・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説している、古い口碑のことを考えていた。概して文化の程度が低く、原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は、真面目に信じているのである、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫