・・・左の眼尻に黒子があったが、――そんな事さえ検べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟いた声は、意外にも・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・やっと十五か十六になった、小さい泣黒子のある小娘である。もとより彼女のこう云ったのは少しでも保吉の教育に力を添えたいと思ったのであろう。彼もつうやの親切には感謝したいと思っている。が、彼女もこの言葉の意味をもっとほんとうに知っていたとすれば・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左の側に黒子のあることを発見した。彼は帽を脱いだまま、怯ず怯ずこう僕に話しかけた。「Aさんではいらっしゃいませんか?」「そうです」「どうもそんな気がしたものですから、……」「何か御用ですか・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・顔は色の浅黒い、左の眼尻に黒子のある、小さい瓜実顔でございます。 武弘は昨日娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻の事はあきらめましても、これだ・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・しかしきょうはどうしたのか、わたしに背中を向けたまま、(わたしはふと彼女の右の肩に黒子絨氈の上に足を伸ばし、こうわたしに話しかけた。「先生、この下宿へはいる路には細い石が何本も敷いてあるでしょう?」「うん。……」「あれは胞衣塚で・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。 これがために、窶れた男は言渋って、「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点し下さいませんように。」「さようか。」 と、も一つ押被せたが、そのまま・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・船か雁か、※かいつぶりか、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒子に似ていた。 冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、蟻が冬籠に貯えたような件のその一銚子。――誰に習っていつ覚えた遣繰だか、小皿の小鳥に紙・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・鴎外が董督した改訂六国史の大成を見ないで逝ったのは鴎外の心残りでもあったろうし、また学術上の恨事でもあった。 鴎外が博物館総長の椅子に坐るや、世間には新館長が積弊を打破して大改革をするという風説があった。丁度その頃、或る処で鴎外に会・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・三 それでも当時の毎日新聞社にはマダ嚶鳴社以来の沼間の気風が残っていたから、当時の国士的記者気質から月給なぞは問題としないで天下の木鐸の天職を楽んでいた。が、新たに入社するものはこの伝統の社風に同感するものでも、また必ずしも・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・が、芸術となると二葉亭はこの国士的性格を離れ燕趙悲歌的傾向を忘れて、天下国家的構想には少しも興味を持たないでやはり市井情事のデリケートな心理の葛藤を題目としている。何十年来シベリヤの空を睨んで悶々鬱勃した磊塊を小説に托して洩らそうとはしない・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
出典:青空文庫