長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼れの妻は、少し跛脚をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ と思い切り頭を前の方にこくりとやった。「うん……八っちゃんがこうやって……病気になったの」 僕はもう一度前と同じ真似をした。お母さんは僕を見ていて思わず笑おうとなさったが、すぐ心配そうな顔になって、大急ぎで頭にさしていた針を抜・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可ません、ようござんすか。」 と茶碗に堆く装ったのである。 その時、間の四隅を籠めて、真中処に、のッしりと大胡坐でいたが、足を向うざまに突き・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ と、こくめいに畳んで持った、手拭で汗を拭いた一樹が、羽織を脱いで引くるめた。……羽織は、まだしも、世の中一般に、頭に被るものと極った麦藁の、安値なのではあるが夏帽子を、居かわり立直る客が蹴散らし、踏挫ぎそうにする…… また幕間で、・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ と両手で頤を扱くと、げっそり瘠せたような顔色で、「一ッきり、洞穴を潜るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 小さな声で、「おだいこくがおいでかね。」「は、とんでもねえ、それどころか、檀那がねえで、亡者も居ねえ。だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。」・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ふたりの子どもはこくりこくり居眠りをしてる。お光さんもさすがに心を取り直して、「まァかわいらしいこと、やっぱりこんなかわいい子の親はしあわせですわ」「よいあんばに小雨になった、さァ出掛けましょう」 雨は海上はるかに去って、霧のよ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・「よけいな返答をこくわ」 つけつけと小言を言わるれば口答えをするものの、省作も母の苦心を知らないほど愚かではない。省作が気ままをすれば、それだけ母は家のものたちの手前をかねて心配するのである。慈愛のこもった母の小言には、省作もずるを・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平生は沈着いて鷹揚である咄をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・彼はこうして笛を吹いていますと、あるときは、くびのまわりの赤い、翼の色の美しい小鳥がどこからか飛んできて、すぐ光治が笛を吹いている頭の上の木の枝に止まって、はじめのうちは、こくびをかしげて熱心に下の方を向いて、笛の音に聞きとれていましたが、・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
出典:青空文庫