・・・融通のきかぬ一本調子の趣味に固執して、その趣味以外の作物を一気に抹殺せんとするのは、英語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべての答案を英語の尺度で採点してしまうと一般である。その尺度に合せざる作家はことごとく落第の悲運に際会せざる・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・だから美の標準のみを固執して真の理想を評隲するのは疝気筋の飛車取り王手のようなものであります。朝起を標準として人の食慾を批判するようなものでしょう。御前は朝寝坊だ、朝寝坊だからむやみに食うのだと判断されては誰も心服するものはない。枡を持ち出・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・又、元のいつでも争いを起し得る固執状態が帰って来る。 来年の新年を、林町へ「お目出とう」を云いに行くことも出来ないのかと云う予想は、自分に涙を浮ばせずには置かないのである。 自分に生活の、愛の確信があり、自分と彼女との性格的差異を熟・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・自分の地方だけの独特性、その価値、その主張を固執する心理の原因は、一方に単調な、画一な中央主義がある場合である。このいずれも亦、十分の民主化のない社会文化におこる危険であり、民主化によってだけ解放される困難なのである。 今日、地方に、文・・・ 宮本百合子 「木の芽だち」
・・・これは、とくにこの戦争以来、私たちの精神をいためつづけてきた暴力によってつくられた、われわれの内部的な抗議の自意識へ固執する癖、という複雑な社会史的コムプレックスをとりあげて、それをほぐし、そこまで飛躍することであろうと思う。 今日・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・自殺と直感した、といわれたときこそその人の妻らしい悲しみのありかたとして、すべての人にも肯かれたのに、いつか、他殺説を固執するようになった夫人の態度。勉学ざかりの少年、青年である子息たちが、色をなして自殺説を否定しはじめたという心理。それら・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・ 素人でよく分らないけれども、ダアウィンが帰納的に種を観察し、進化を観察して行ったに対してファブルが、どこまでも実証的な足場を固執したのも面白い。だが、ファブルの或る意味での科学者としての悲劇は、寧ろそういうところにあったのではなかろう・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
・・・ 長い時間がいつか最初の動機の意味も純粋さも失わせて、只一度の形式と化した或礼儀などに固執して、其によって自己の尊厳を感じたり、侮蔑を感じたりするのは、余りに鈍い心の所有者と申さなければなりません。 けれども、C先生、私は真個に伝習・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・しかも彼が敢てこの紀行文を公表するのは、上述のような人類的な確信と共に、虚偽に固執することは却って敵の攻撃に絶好の機会を与えるものであるという現実生活における経験及び「真理は、たとえ痛々しいものであっても、癒すためにしか傷つけないものである・・・ 宮本百合子 「ジイドとそのソヴェト旅行記」
・・・極度の静謐、すっかり境界がぼやけ、あらゆる固執を失った心と対象との間に、自ら湧き起る感興、想念と云うもので先ずその第一歩を踏み出すのが創作の最も自然な心の態度らしく感ぜられ始めたのである。何たる沈黙、沈黙を聞取ろうと耳傾ける沈黙――人が、己・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
出典:青空文庫