・・・口を糊せんとすれば、学を脩むるの閑なし、学を脩めんとすれば、口を糊するを得ず。一年三百六十日、脩学、半日の閑を得ずして身を終るもの多し。道のために遺憾なりというべし。 (我が輩かつていえらく、打候聴候は察病にもっとも大切なるものなれども・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・あのトラホームの眼のふちを擦る青い石だ。あれを五かけ、紙に包んで持って来て、ぼくをさそった。巡査に押えられるよと云ったら、田から流れて来たと云えばいいと云った。けれども毒もみは卑怯だから、ぼくは厭だと答えたら、しゅっこは少し顔いろを変えて、・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・私は冬によくやる木片を焼いて髪毛に擦るとごみを吸い取ることを考えながら云いました。「行こう。今日僕うちへ一遍帰ってから、さそいに行くから。」「待ってるから。」私たちは約束しました。そしてその通りその日のひるすぎ、私たちはいっしょに出・・・ 宮沢賢治 「鳥をとるやなぎ」
・・・床を歩く群集のたてる擦るようなスースーという音。日本女はそれ等をやきつくように心に感覚しつつ郵便局の重い扉をあけたりしめたりした。 Yが帰ってから、アイサツに廻り、荷物のあまりをまとめ、疲れて、つかれて、しまいには早く汽車が出てゆっくり・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・それを見つけさえすれば、骨を惜しまずに働いて、ようよう口を糊することのできるだけで満足した。そこで牢に入ってからは、今まで得がたかった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・小指の爪で一寸擦ると、「こりゃ姉やんに持って来いやがなア。」と云いながらまた奥の間へ這入っていった。十 安次の小屋が組から建てられることに定ったと知ったとき、勘次は母親をその夜秋三の家へ送ったことを後悔した。しかし、今は・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫