・・・が、問い返そうと思う内に、赤帽はちょいと会釈をすると、こそこそ人ごみの中に隠れてしまった。それきり千枝子はいくら探して見ても、二度とその赤帽の姿が見当らない。――いや、見当らないと云うよりも、今まで向い合っていた赤帽の顔が、不思議なほど思い・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ憚った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名していたのだ。 時々佐・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・何、こそこそと、鼠あるきに、行燈形の小な切籠燈の、就中、安価なのを一枚細腕で引いて、梯子段の片暗がりを忍ぶように、この磴を隅の方から上って来た。胸も、息も、どきどきしながら。 ゆかただか、羅だか、女郎花、桔梗、萩、それとも薄か、淡彩色の・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・と、お貞が受けて、「借金が返せないもんだから、うちへ来ないで、こそこそとほかでぬすみ喰いをしゃアがる!」 子供はふたりとも吹き出した。「吉弥も吉弥だ、あんな奴にくッついておらなくとも、お客さんはどこにでもある。――あんな奴があって、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ところが、顧みて日本の文壇を考えると、今なお無気力なオルソドックスが最高権威を持っていて、老大家は旧式の定跡から一歩も出ず、新人もまたこそこそとこの定跡に追従しているのである。 定跡へのアンチテエゼは現在の日本の文壇では殆んど皆無にひと・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ その途端、一人の大男が、こそこそと、然しノッポの大股で、境内から姿を消してしまったが、その男はいわずと知れた郷士鷲塚佐太夫のドラ息子の、佐助であった。 佐助は、アバタ面のほかに人一倍強い自惚れを持っていた。 その証拠に、六・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・ こそこそ立ち去って雁次郎横丁の焼跡まで来ると、私はおやっと思った。天辰の焼跡にしょんぼり佇んでいる小柄な男は、料理衣こそ着ていないが天辰の主人だと一眼で判り、近づいて挨拶すると、「やア、一ぺんお会いしたいと思ってました」とお世辞で・・・ 織田作之助 「世相」
・・・二十七年の夏も半ばを過ぎて盆の十七日踊りの晩、お絹と吉次とが何かこそこそ親しげに話して田圃の方へ隠れたを見たと、さも怪しそうにうわさせし者ありたれど恐らくそれは誤解ならん。なるほど二人は内密話しながら露繁き田道をたどりしやも知れねど吉次がこ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ ほかの少年らも驚いて、豊吉を怪しそうに見て、急に糸を巻くやら籠を上げるやら、こそこそと逃げていってしまった。 豊吉はあきれ返って、ぼんやり立って、少年らの駆けて行く後ろ影を見送った。『上田の豊さんが帰ったそうだ』と彼を記憶・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ところは蚊を捕え損なった疣蛙みたようだ」とは曾て自分を罵しった言葉。 疣蛙が出ない中にと、自分は、「ちょっと出て来ます、御悠寛」とこそこそ出てしまった。何と意気地なき男よ! 思えば母が大意張で自分の金を奪い、遂に自分を不幸のドン・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫