・・・ 呉清輝は、実際、かげにかくれてこそこそと、あぶない仕事をやるために産れてきたような男だった。してはならぬ、ということがある。呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを覚えるようなたちの男だ。掏摸・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・彼等は、物をくすねそこねた泥棒のように頸をちぢめてこそこそ周囲を盗み見ながら兵士の横を走せぬけた。「早く行け!」 栗本が聞き覚えのロシア語で云った。百姓は、道のない急な山を、よじ登った。「撃てッ! 撃てッ! パルチザンを鏖に・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ おしかが、何から何までこそこそやっていると園子はやがてそう云い置いて二階へ上ってしまうのだった。おしかは鍋の煮物が出来るとお湯をかけた。「出来まして……どうもすみません。」清三が帰ると園子は二階から走り下りてきて食卓を拡げた。・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・むりでもそれに違いない、と権柄ずくで自説を貫いて、こそこそと山を下りはじめる。 下りる途中に、先に投げた貝殻が道へぽつぽつ落ちている。綺麗な貝殻だから、未練にもまた拾って行きたくなる。あるだけは残らず拾ったけれどやっと、片手に充ちるほど・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 二 翌る日のお昼すこし前に、私が玄関の傍の井戸端で、ことしの春に生れた次女のトシ子のおむつを洗濯していたら、夫がどろぼうのような日蔭者くさい顔つきをして、こそこそやって来て、私を見て、黙ってひょいと頭をさげて・・・ 太宰治 「おさん」
・・・あやうく踏みとどまり、冷汗三斗の思いでこそこそ店内に逃げ込んだ。ひどいほこりであった。六、七脚の椅子も、三つのテエブルも、みんな白くほこりをかぶっていた。かれは躊躇せず、入口にちかい隅の椅子に腰をおろした。いつも隅は、男爵に居心地がよかった・・・ 太宰治 「花燭」
・・・負けるにきまっているものを、陰でこそこそ、負けるぞ負けるぞ、と自分ひとり知ってるような顔で囁いて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。 私はそのように「日本の味方」のつもりでいたのであるが、しかし時の政府には、やっぱりどうも信用が無か・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・そのために、あらゆる義理を欠き、あらゆる御無沙汰をして、寒さを逃げ廻っては、こそこそと一番大事なと思う仕事だけを少しずつしている。そのお蔭で幸いに今年はまだ流感に冒されず従って肺炎にもならずに今日までたどりついたような気がする。ましてや雪の・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・それはとにかくこの人の云う通り、自分なども五十年来書物から人間から自然からこそこそ盗み集めた種に少しばかり尾鰭をつけて全部自分で発明したか、母の胎内から持って生れて来たような顔をして書いているのは全くの事実なのである。 人から咎められな・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・次にテーブルを囲んだ人々の環を伝わって卓の下でこそこそと品物が廻される。口々に La mer est calme, la mer est calme.(好い凪と云っている。次に何と云ったか忘れたが、とにかく「海が荒れ出した」という意味の言葉・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫