・・・もしこれが自分の家であったら、見知らぬ人に寝起のままの乱れた髪や汚れた顔を見せずとも済むものを、宿屋に泊る是非なさは、皺だらけになった寝衣に細いシゴキを締めたままで、こそこそと共同の顔洗い場へ行かねばならない。 洗場の流は乾く間のない水・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・娘は俯向いてこそこそと降りた。癪に障って忌々しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその伴の図々しい間抜な態度を罵った。飛沫を受けたので、眉を顰めながら膝を拭いている婆さんや、足袋の先を汚された・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・若い衆はみんな自分の女を見つけると彼を棄ててそこらの藪や林へこそこそと隠れて畢う。太十はどの女にも嫌われた。丁度水に弾かれる油のようであった。それでも彼は昼間は威勢よく馬を曳いて出た。彼は紺の腹掛に紺の長いツツポ襦袢を着て三尺帯を前で結んで・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・それから二三日して、かの患者の室にこそこそ出入りする人の気色がしたが、いずれも己れの活動する立居を病人に遠慮するように、ひそやかにふるまっていたと思ったら、病人自身も影のごとくいつの間にかどこかへ行ってしまった。そうしてその後へはすぐ翌る日・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・りすはしばらくきのどくそうに立って見ておりましたが、とうとうこそこそみんな逃げてしまいました。 兎のお父さんがまた申しました。 「お前はもうだめだ。貝の火を見てごらん。きっと曇ってしまっているから」 兎のおっかさんまでが泣いて、・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・そしてこそこそこそこそ、逃げるようにおもてに出てひとりが三十三本三分三厘強ずつという見当で、一生けん命いい木をさがしましたが、大体もう前々からさがす位さがしてしまっていたのですから、いくらそこらをみんながひょいひょいかけまわっても、夕方まで・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ すると戸の中では、こそこそこんなことを云っています。「だめだよ。もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ。」「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。あすこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて・・・ 宮沢賢治 「注文の多い料理店」
・・・ しかし、村でも到頭人殺しが出るようになったか。こそこそ泥棒も滅多にはなかったのに――。村の中で、この夜、村始まって初めての殺人があるかも知れないという状態はせいそうだ。私の想像はいやに活々して来た。まるで天眼通を授かったように、血なま・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。 どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。 自分のことを眼の敵にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・かれはその背後で彼らがこそこそ話をしているらしく感じた、 次の週の火曜日、ゴーデルヴィルの市場へとかれは勇み立って出かけた、かの一条を話したいばかりに。例のマランダンがその戸口に立っていてかれの通るのを見るや笑いだした。なぜだろう。・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫