・・・ 近藤君の画は枯淡ではない。南画じみた山水の中にも、何処か肉の臭いのする、しつこい所が潜んでいる。其処に芸術家としての貪婪が、あらゆるものから養分を吸収しようとする欲望が、露骨に感ぜられるのは愉快である。 今日の流俗は昨日の流俗では・・・ 芥川竜之介 「近藤浩一路氏」
・・・対人関係について淡白枯淡、あっさりとして拘泥せぬ態度をとるということも一つの近代的な知性ではあるが、私たちとしてはそれをとらない。やはり他人を愛し信じたのんだ上でやむなくば傷つきもし、嘆きもした方がいい。 わが国でも大正末期ごろにはそう・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・筆が洗練され、枯淡になっていても、やはりどこか昔の虚子の「三つのもの」や「石棺」時代の名残のようなものが紙面の底から浮上がって来るように私には感ぜられるのである。しかしそういう点を高浜虚子氏に対して感ずる人は割合に少ないかもしれない。丸ビル・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・甲殿 「コタン」は村。またマレイで「コタ」は町。またビルマ語で「コーンダーン」は小さき山脈。和喰 「ワシ」波浪「ケプ」破れる。また「ケ」場所。奴田 「ヌ」頂の平たき山「タプ」円頂丘。日下 「クサハ」河を渡船で渡る。勿論土佐の・・・ 寺田寅彦 「土佐の地名」
・・・あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥り過ぎてかえって真情の潤いに乏しくなった古来の道徳に対する反感から、わざと悪徳不正を迎えて一時の快哉を呼ぶものとも見られる。要するに厭世的なるかかる詭弁的精神の傾向は破壊的なるロマンチズムの主張から生じた・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・七年間の労作に堪ゆる人間が、枯淡であろうとも思わないし、無計画であるとも思わない。同じ十月の『文芸』に中村光夫氏が短い藤村研究「藤村氏の文学」を書いていて、中に「氏は自己の精神の最も大切な部分を他人の眼から隠すことを学んだのであろう」「おそ・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・こういう性格の藤村が、その芭蕉研究において、芭蕉の芸術が所謂翁の枯淡さでは決してなくて、抑えに抑えた鬱々たるもの、抑えられたる中年の力の芸術であると看破っていることは、面白い。 従って、藤村の自然への愛着にも、この人間関係の間において少・・・ 宮本百合子 「藤村の文学にうつる自然」
・・・芭蕉というと枯淡と言葉を合わせ、一笠一杖の人生行脚の姿を感傷的に描くのが俗流風雅の好みである。真実の芸術家として、芭蕉が「此一筋につながる」とばかり執拗に、果敢に破綻をもおそれず、即発燃焼を志して一箇の芸術境をきずいて行った姿というものは、・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・色彩という点から言っても、この枯淡な色の釣り合いが最もよいかもしれない。 これは私には非常な驚きであった。東京では冬の間樹木の姿が目に入らなかったのである。まれに目に入ると、それはむしろいやな感じを与える。早く春になって新芽が出るとよい・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫