・・・ 口ギタなく罵る叫びは、向うの山壁にこだました。そして、同じ声が、遠くから、又、帰って来た。「貧乏たれの餓鬼らめに限って、くそッ! どうもこうもならん! くそッ!」 番人は、トシエの親爺に日給十八銭で、松茸の時期だけ傭われていた・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・同じ汽車にて本庄まで行き、それより児玉町を経て秩父に入る一路は児玉郡よりするものにて、東京より行かんにははなはだしく迂なるが如くなれども、馬車の接続など便よければこの路を取る人も少からず。上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・そして底の縁に小孔があって、それに細い組紐を通してある白い小玉盃を取出して自ら楽しげに一盃を仰いだ。そこは江戸川の西の土堤へ上り端のところであった。堤の桜わずか二三株ほど眼界に入っていた。 土耳古帽は堤畔の草に腰を下して休んだ。二合余も・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・しかも噂と事ちがって、あまりの痛苦に、私は、思わず、ああっ、と木霊するほど叫んでしまった。楽じゃないなあ、そう呟いてみて、その己れの声が好きで好きで、それから、ふっとたまらなくなって涙を流した。死ぬる直前の心には様様の花の像が走馬燈のように・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・いまも、ふと、蚊帳の中の蚊を追い、わびしさ、ふるさとの吹雪と同じくらいに猛烈、数十丈の深さの古井戸に、ひとり墜落、呼べども叫べども、誰の耳にもとどかぬ焦慮、青苔ぬらぬら、聞ゆるはわが木霊のみ、うつろの笑い、手がかりなきかと、なま爪はげて血だ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 高野さちよは、山の霧と木霊の中で、大きくなった。谷間の霧の底を歩いてみることが好きであった。深海の底というものは、きっとこんなであろう、と思った。さちよが、小学校を卒業したとしに、父は、ふたたび隣りのまちの女学校に復職した。さちよの学・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・でも窓下の学生のセレネードは別として、露台のビア・ガルテンでおおぜいの大学生の合唱があって、おなじみのエルゴ・ヴィヴァームスの歌とザラマンダ・ライベンの騒音がラインの谷を越えて向こうの丘にこだまする。 ロシアでもドイツでも、男どうしがお・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・鳥を追えば、こだまさえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻の影も写そう。時には壁から卸して磨くかとウィリアムに問えば否と云う。霊の盾は磨かねども光るとウィリアムは独り語の様に云う。 盾の真中が五寸ばかりの円を描いて浮き上る。これには怖ろしき夜叉の顔が・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・崖からこだまが返って来ました。 私はにわかに面白くなって力一ぱい叫びました。「ホウ、居たかぁ。」「居たかぁ。」崖がこだまを返しました。「また来るよ。」慶次郎が叫びました。「来るよ。」崖が答えました。「馬鹿。」私が少し・・・ 宮沢賢治 「谷」
・・・その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。 林はまたしずまりかえりました。よくよく梢をすかして見ましたら、やっぱりそれは梟でした。一疋の大きなのは、林の中の一番高い松の木の、一番高い枝にとまり、そのまわ・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
出典:青空文庫