・・・並んで行く船に苅谷氏も乗り居てこれも今日の船にて熊本へ行くなりとかにてその母堂も船窓より首さしのべて挨拶する様ちと可笑しくなりたれど、じっとこらゆるうちさし込む朝日暑ければにや障子ぴたりとしめたり。程なく新高知丸の舷側につけば梯子の混雑例の・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・「こらァ、豪気だぞい」 善ニョムさんは、充分に肥料のきいた麦の芽を見て満足だった。腰から煙草入れをとり出すと一服点けて吸いこんだが、こんどは激しく噎せて咳き入りながら、それでも涙の出る眼をこすりながら呟いた。「なァ、いまもっとい・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 面白やどの橋からも秋の不二 三島神社に詣でて昔し千句の連歌ありしことなど思い出だせば有り難さ身に入みて神殿の前に跪きしばし祈念をぞこらしける。 ぬかづけばひよ鳥なくやどこでやら 三島の旅舎に入りて一夜の宿りを請えば・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ ホモイも疲れでよろよろしましたが、無理にこらえて、楊の白い花をむしって来て、ひばりの子にかぶせてやりました。ひばりの子は、ありがとうと言うようにその鼠色の顔をあげました。 ホモイはそれを見るとぞっとして、いきなり跳び退きました。そ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・〔以下原稿数枚なし〕の山にのぼってよくそこらを見ておいでなさい。それからあしたは道具をもってくるのです。それではここまで。」と先生は云いました。みんなもうあの山の上ばかり見ていたのです。「気を付けっ。」一郎が叫びました。「礼っ。・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・自分の心持のよって来る立場というものの作用をわきまえて、全体の人間関係のいきさつを、今日の世相の一つの姿として理解したら、その娘さんは自分を不快におとしいれた一波瀾から心持の上で何か豊富なものをえてもこられるのではなかったろうか。 その・・・ 宮本百合子 「女の自分」
・・・石川は、なお尻尾を振って彼の囲りを跳び廻る犬を、「こらこら、さあもう行った、行った」とあしらいながら、何気なく表の土間に入った。上り端の座布団に男女連れがかけていた。入って行った石川の方に振り向いた女の容貌や服装が、きわだって垢ぬけ・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・それは熱が高いので、譫語に「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。 木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉が宥め賺して、病人を介抱しているうちに、病附の急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日数で病気に打ち勝った。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・どうもそこらでいい所を見つけて、野宿をなさるよりほか、しかたがありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休みなさるがいいでしょう。岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川の上から流して来た材木です。昼・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・「秋公帰ぬのか?」と安次が訊いた。「もう好えやろが。」「云うてくれ、云うてくれ。」「云うてくれって、お前宝船やないか、ゆっくりそこへ坐っとりゃ好えのじゃ。」「こらこら、俺も行くぞ。」「阿呆ぬかせ! 伯母やん、此奴どっ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫