・・・今更体面を、顧慮する如きは、姑息の見であると云う。――二人は、各々、自説を固守して、極力論駁を試みた。 すると、老功な山崎が、両説とも、至極道理がある。が、まず、一応、銀を用いて見て、それでも坊主共が欲しがるようだったら、その後に、真鍮・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる関係にたっているのである。けっして調和を一松崎水亭にのみゆだぬべきものではない。 自分は、この盂蘭盆会に水辺の家々にともされた切角灯籠の火が樒のにおいにみちたたそがれの川へ静かな影を落・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・人の不幸や、零落につけこんで、その秘密まで聞こうとするのは、決して心あるもののすることでないとは承知しながらも、彼に二度まで遇い、その遇うた場所と趣とが少からず自分を動かしたために、それらを顧慮することができなかったのである。「ヘイ、お・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・いつでも冷たく忍従して、そのくせ、やるとなったら、世間を顧慮せずやりのける。ああ、おれはそれを頼もしい性格と思ったことさえある! 芋の煮付が上手でね。今は危い。お前さんが殺される。おれの生れてはじめての恋人が殺される。もうこれが、私の生涯で・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・自分の心の醜さと、肉体の貧しさと、それから、地主の家に生れて労せずして様々の権利を取得していることへの気おくれが、それらに就いての過度の顧慮が、この男の自我を、散々に殴打し、足蹶にした。それは全く、奇妙に歪曲した。このあいそのつきた自分の泡・・・ 太宰治 「花燭」
・・・その時のジャアナリズムが、政府の方針を顧慮し過ぎて、自分の小説の発表を拒否する事が、もし万一あったとしても、自分は黙って書いて行きます。発表せずとも、書き残して置くつもりです。自分は明白に十九世紀の人間です。二十世紀の新しい芸術運動に参加す・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・挨拶を受けた相手の名誉を顧慮しているのである。土蔵の裏手、翼の骨骼のようにばさと葉をひろげているきたならしい樹木が五六ぽん見える。あれは棕梠である。あの樹木に覆われているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。左官屋はいま牢のなかにいる。細君を・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・けれども、メリメにしろ、ゴオゴリにしろ、――また、いま、ふと頗る唐突に思い浮んだのであるが、シャトオブリアン、パスカルほどの大人物でも、――どのように、その時代の世評を顧慮し、人しれぬ悪戦苦闘をつづけたことか、私はそれに気がつき、涙ぐましく・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・にもしばしば行っているのだから、私がこんな異様な風態をしていても怪しまれる事は無いであろうし、少しはお勘定を足りなくしても、この次、という便利もあるし、それに女給もいない酒だけの店なのだから、身なりの顧慮も要らないだろうと思ったのである。・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・着した場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着に、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少なくも純真なる芸術が一つの新しい観察創見に出会うた場合には、その実用的の価値などには顧慮する事なしに、その深刻なる描写表現を・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
出典:青空文庫