・・・ Mは長ながと寝ころんだまま、糊の強い宿の湯帷子の袖に近眼鏡の玉を拭っていた。仕事と言うのは僕等の雑誌へ毎月何か書かなければならぬ、その創作のことを指すのだった。 Mの次の間へ引きとった後、僕は座蒲団を枕にしながら、里見八犬伝を読み・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・――そう思うと、今まではただ、さびしいだけだったのが、急に、怖いのも手伝って、何だか片時もこうしては、いられないような気になりました。何さま、悪く放免の手にでもかかろうものなら、どんな目に遭うかも知れませぬ。「そこで、逃げ場をさがす気で・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・あたしもゆうべは怖い夢を見た。……」「どんな夢を?――このタイはもう今年ぎりだね。」「何か大へんな間違いをしてね、――何をしたのだかわからないのよ。何か大へんな間違いをして汽車の線路へとびこんだ夢なの。そこへ汽車が来たものだから、―・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・それがその日は大変強いように私たちは思ったのです。踝くらいまでより水の来ない所に立っていても、その水が退いてゆく時にはまるで急な河の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘れるものですから、うっかりしていると倒れそうになる位でした。その水の沖の・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・私たちはまるで夢の中で怖い奴に追いかけられている時のような気がしました。 後から押寄せて来る波は私たちが浅い所まで行くのを待っていてはくれません。見る見る大きく近くなって来て、そのてっぺんにはちらりちらりと白い泡がくだけ始めました。Mは・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・「やれ怖い事するでねえ、傷ましいまあ」 すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。「黙れってば。物いうと汝れもたたき殺されっぞ」 仁右衛門は殺人者が生き残った者・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・、来い来い、何も可怖いことはない。 シュッチュカは行っても好いと思った。そこで尻尾を振って居たが、いよいよ行くというまでに決心がつかなかった。百姓は掌で自分の膝を叩いて、また呼んだ。「来いといったら来い。シュッチュカ奴。馬鹿な奴だ。己れ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・あたりの風物に圧せらるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人ばかり居た、恐いもの見たさの徒、ばたり、ソッと退く気勢。「や。」という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱るるかのごとく、廊下を彼方へ、隔ってまた跫音、次第に跫・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と口の裡、呼吸を引くように、胸の浪立った娘の手が、謹三の袂に縋って、「可恐い……」「…………」「どうしましょうねえ。」 と引いて縋る、柔い細い手を、謹三は思わず、しかと取った。 ――いかになるべき人たちぞ…大正・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
出典:青空文庫