・・・ 神山は金口を耳に挟みながら、急に夏羽織の腰を擡げて、そうそう店の方へ退こうとした。その途端に障子が明くと、頸に湿布を巻いた姉のお絹が、まだセルのコオトも脱がず、果物の籠を下げてはいって来た。「おや、お出でなさい。」「降りますの・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・しかしペップは何も言わずに金口の巻煙草に火をつけていました。すると今までひざまずいて、トックの創口などを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。(実はひとりと四匹「もう駄目です。トック君は元来胃病で・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・が、それ等にも疲れた後、中村は金口に火をつけながら、ほとんど他人の身の上のようにきょうの出来事を話し出した。「莫迦だね、俺は。」 話しを終った中村はつまらなそうにこうつけ加えた。「ふん、莫迦がるのが一番莫迦だね。」 堀川は無・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・画家 (且つ傾き、且つ聞きつつ、冷静に金口煙草を燻お爺さん、煙草を飲むかね。人形使 いやもう、酒が、あか桶の水なれば、煙草は、亡者の線香でござります。画家 喫みたまえ。(真珠の飾のついたる小箱のまま、衝と出人形使 はッこれは・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・それには、困苦と闘争が予想されるからだ。芸術の権威は、彼等によって、すでに軟化される。そして、表現されたものは芸術本来の姿ではなくして、畢竟自己の趣味化された技巧の芸術となって、第一義の精神からは、変形された玩賞的芸術に他ならないのだ。・・・ 小川未明 「正に芸術の試煉期」
・・・初甚だしい貧家に生れたので、思うように師を得て学に就くという訳には出来なかったので、田舎の小学を卒ると、やがて自活生活に入って、小学の教師の手伝をしたり、村役場の小役人みたようなことをしたり、いろいろ困苦勤勉の雛型その物の如き月日を送りなが・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・八年間、その間には、往年の呑気な帝国大学生の身の上にも、困苦窮乏の月日ばかりが続きました。八年間、その間に私は、二十も年をとりました。やがて雨さえ降って来て、家内も、母も、妹も、いい町です、落ち附いたいい町です、と口ではほめていながら、やは・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・どく貧乏な大工の家に生れ、気の弱い、小鳥の好きな父と、痩せて色の黒い、聡明な継母との間で、くるしんで育ち、とうとう父母にそむいて故郷から離れ、この東京に出て来て、それから二十年間お話にも何もならぬ程の困苦に喘ぎ続けて来たという事、それも愚痴・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・うすみどり色の外套にくるまった、その大学生は立ちどまり、ノオトから眼をはなさず、くわえていた金口の煙草をわれに与えた。与えてそのままのろのろと歩み去った。大学にもわれに匹敵する男がある。われはその金口の外国煙草からおのが安煙草に火をうつして・・・ 太宰治 「逆行」
・・・私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。 それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
出典:青空文庫