・・・出来の上で、と辞して肯ぜぬのを、平にと納めさすと、きちょうめんに、硯に直って、ごしごしと墨をあたって、席書をするように、受取を―― 記一金……円也「ま、ま、摩……耶の字?……ああ、分りました。」「御主人。」 と・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 省作は手水鉢へ水を持ってきて、軒口の敷居に腰を掛けつつ片肌脱ぎで、ごしごしごしごし鎌をとぐのである。省作は百姓の子でも、妙な趣味を持ってる男だ。 森の木陰から朝日がさし込んできた。始めは障子の紙へ、ごくうっすらほんのりと影がさす。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・浄行大菩薩といい、境内の奥の洗心殿にはいっているのだが、霊験あらたかで、たとえば眼を病んでいる人はその地蔵の眼に水を掛け、たわしでごしごし洗うと眼病が癒り、足の悪い人なら足のところを洗うと癒るとのことで、阿呆らしいことだけれど年中この石地蔵・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・というものの擂鉢の底をごしごしやるだけで、水洟の落ちたのも気付かなかった。 種吉では話にならぬから素通りして路地の奥へ行き種吉の女房に掛け合うと、女房のお辰は種吉とは大分違って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振りが余って腰掛・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・雨の日など泥まみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二室が共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・老母は錆びた庖丁を砥石にかけて、ごしごしやっていた。「これおいしいですよ。私大事に取っておいたの」お絹は言っていた。「その庖丁じゃおぼつかないな」道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。「庖・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その中にこのごしごしと物を擦り減らすような異な響だけが気になった。 自分の室はもと特等として二間つづきに作られたのを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・やがて涙も一緒に水道の水でごしごしこすった顔を因幡の兎のように赤むけに光らして、しんから切なさそうにそのひとが席へ帰って来たとき、三十二人の全級はどういう感じにうたれたろう。こわさと一緒に惨酷さがわたしの体をふるわせた。 こういう忘れら・・・ 宮本百合子 「歳月」
出典:青空文庫