・・・孩児の頃より既に音律を好み、三歳、痘を病んで全く失明するに及び、いよいよ琴に対する盲執を深め、九歳に至りて隣村の瞽女お菊にねだって正式の琴三味線の修練を開始し、十一歳、早くも近隣に師と為すべき者無きに至った。すぐに京都に上り、生田流、松野検・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・と駄目をおし、「むかし嵯峨のさくげん和尚の入唐あそばして後、信長公の御前にての物語に、りやうじゆせんの御池の蓮葉は、およそ一枚が二間四方ほどひらきて、此かほる風心よく、此葉の上に昼寝して涼む人あると語りたまへば、信長笑わせ給へば、云々」とあ・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・柵の外より頻りに汽車の方を覗く美髯公のいずれ御前らしきが顔色の著しく白き西洋人めくなど土地柄なるべし。立派なる洋館も散見す。大船にて横須賀行の軍人下りたるが乗客はやはり増すばかりなり。隣りに坐りし静岡の商人二人しきりに関西の暴風を語り米相場・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・もし木戸松菊がいたらば――明治の初年木戸は陛下の御前、三条、岩倉以下卿相列座の中で、面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、すでに外国には君王を廃して共和政治を布きたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凜然として言上し、・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたので、わたくしも能く之を見おぼえている。家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるとこ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・「御前、訳ア御わせん。雪の上に足痕がついて居やす。足痕をつけて行きゃア、篠田の森ア、直ぐと突止めまさあ。去年中から、へーえ、お庭の崖に居たんでげすか。」 清五郎の云う通り、足痕は庭から崖を下り、松の根元で消えて居る事を発見した。父を・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 縁日の事からもう一人私の記憶に浮び出るものは、富坂下の菎蒻閻魔の近所に住んでいたとかいう瞽女である。物乞をするために急に三味線を弾き初めたものと見えて、年は十五、六にもなるらしい大きな身体をしながら、カンテラを点した薦の上に坐って調子・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺の堂宇も今はセメント造の小家となり、境内の石碑は一ツ残らず取除かれてしまい、牛の御前の社殿は言問橋の袂に移されて人の目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・それは瞽女のお石がふっつりと村へ姿を見せなくなったからであった。彼がお石と馴染んだのは足かけもう二十年にもなる。秋のマチというと一度必ず隊伍を組んだ瞽女の群が村へ来る。其同勢のうちにお石は必ず居たのである。晩秋の収穫季になると何処でも村の社・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・演説者は濁りたる田舎調子にて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの哲人と人が言囃すのは御前の事かと問う。なるほど世間ではわしの事をチェルシーの哲人と云うようじゃ。セージと云うは鳥の名だに・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫