従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしている・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・という一言を、身を割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。 自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。これに反してもし自分が殉死を許・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・これは少し牛刀鶏を割く嫌がある。その上厳めしい配達の為方が殺風景である。そういう時には走使が欲しいに違ない。会杜の徽章の附いた帽を被って、辻々に立っていて、手紙を市内へ届けることでも、途中で買って邪魔になるものを自宅へ持って帰らせる事でも、・・・ 森鴎外 「独身」
・・・戯曲においては、同じ足ならしの一幕物若干が成ったのみで、三幕以上の作はいたずらに見放くる山たるにとどまった。哲学においては医者であったために自然科学の統一するところなきに惑い、ハルトマンの無意識哲学に仮りの足場を求めた。おそらくは幼いときに・・・ 森鴎外 「なかじきり」
・・・日光の下に種々の植物が華さくように、同時に幾つかの為事を始めて、かわるがわる気の向いたのに手を着ける習慣になっているので、幾つかの作品が後れたり先だったりして、この人の手の下に、自然のように生長して行くのである。この人は恐るべき形の記憶を有・・・ 森鴎外 「花子」
・・・ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷けないことだったが、笑顔に顕れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くな・・・ 横光利一 「微笑」
・・・あるいは庭に咲く日向葵、日夜我らの親しむ親や子供の顔。あるいは我らが散歩の途上常に見慣れた景色。あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物が、彼らに対して、「そこに在ることの不思議さ」を、「その測り知られぬ美しさ」・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫