・・・その株屋は誰が何と言っても、いや、虎魚などの刺す訣はない、確かにあれは海蛇だと強情を張っていたとか言うことだった。「海蛇なんてほんとうにいるの?」 しかしその問に答えたのはたった一人海水帽をかぶった、背の高いHだった。「海蛇か?・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の午すぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がす・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 女はいままでのつつましさにも似ず、止めを刺すように云い放った。「わたくしの夫、一番ヶ瀬半兵衛は佐佐木家の浪人でございます。しかしまだ一度も敵の前に後ろを見せたことはございません。去んぬる長光寺の城攻めの折も、夫は博奕に負けましたた・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・』私はこう云う三浦の言の底に、何か針の如く私の耳を刺すものがあるのに気がつきました。が、夕暗の中に透して見ると、彼は相不変冷な表情を浮べたまま、仏蘭西窓の外の水の光を根気よく眺めているのです。私『ところで釣にはいつ出かけよう。』三浦『いつで・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・風に向った二人の半身は忽ち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような刺戟は二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は睫毛に氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。 国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引つかんで声を堪えた、茨の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くり・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向けに結んで、緋や、浅黄や、絞の鹿の子の手絡を組んで、黒髪で巻いた芍薬の莟のように、真中へ簪をぐいと挿す、何転進とか申すのにばかり結う。 何と絵蝋・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・一つは曲水の群青に桃の盃、絵雪洞、桃のような灯を点す。……ちょっと風情に舞扇。 白酒入れたは、ぎやまんに、柳さくらの透模様。さて、お肴には何よけん、あわび、さだえか、かせよけん、と栄螺蛤が唄になり、皿の縁に浮いて出る。白魚よし、小鯛よし・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・白糸、美しき風のごとく格子を出でてハタと鎖す。撫子指を打って悩む。欣弥 私は、俺は、婦の後へは駈出せない、早く。撫子 欣弥 早く、さあ早く。撫子 (門太夫さん……姉さん。白糸 お放し!撫子 いいえ。大正五年二・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・ ええ、姐さん変じゃないか、気が差すだろう。それからそのお小姓は、雪洞を置いて、ばたりと戸を開けたんだ、途端に、大変なものが、お前心持を悪くしては可けない、これがみんな病のせいだ。 戸を開けると一所に、中に真俯向けになっていた、穢い・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
出典:青空文庫